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23歳でスイス特許局に就職、26歳で特殊相対性理論発表…… 自分と比較! もしアインシュタインが30歳でレジュメを書いたら
「レジュメ」の書き方ひとつで、エンジニアのキャリア形成は大きく変わってくる。自分の経歴をどのように整理し、これからの可能性をどうアピールするのか。今回も歴史的人物の「レジュメ」を通して、そのポイントを探ってみよう。
(取材・文/中村光宏 総研スタッフ/山田モーキン)作成日:06.04.05
【はじめに】もしもアインシュタインが転職するとしたら……歴史をひもとき、レジュメを代筆
 登録しておけば市場価値を相対的に把握できたり、登録者のレジュメを熟読した企業から、スキルや志向にふさわしいメッセージが届く、エンジニアのキャリア形成に役立つリクナビNEXTスカウト。ところが、いざ登録するためにレジュメを作り始めてみると、自分のことをうまくアピールできずに苦労するエンジニアは多い。そこで、Tech編集部はだれもが知っている超有名エンジニアのレジュメを作成してみることで、何かしらのヒントが得られるのでは?と考えた。
 今回取り上げたのは、「アルバート・アインシュタイン」。20世紀最大の天才科学者として、その名を知らない人はいないだろう。「特殊相対性理論」「一般相対性理論」に代表される彼が打ち立てた理論の数々は、ニュートン以来の物理学の常識を覆し、宇宙や分子の構造、時間の概念さえをも塗り替えてきた。

 そんなアインシュタインも、大学卒業後の就職では並々ならぬ苦労をしている。しかし、思うにまかせぬ暮らしを送りながらも、自らの研究を続け、テーマを磨き、次々に歴史に残る論文を発表していったアインシュタイン。その精神は、現状に満足できずにいる現代のエンジニアにとっても、見習うべき点が多々あるのではないだろうか。

 そこで、「もしもアインシュタインが、30歳のときにチューリッヒ大学の準教授に登用されず、大学教授の職をあきらめないで転職活動を続けていたら……」と仮定して、Tech総研編集部でレジュメを作ってみた。
 転機を感じている方は、ぜひ自分のエンジニアキャリアと比べてみてほしい。また、リクナビNEXTスカウトに登録している方は、書き方の参考に。

 それでは早速、アインシュタイン30歳の「職務経歴」「自己PR」「キャリアプラン」をご覧いただきたい。
profile
1879年、ドイツ南部のウルムで生まれる。1889年、ミュンヘンのルイトポルド・ギムナジウム(州立高校)に入学。1895年、16歳でスイスのチューリッヒ連邦工科大学の入学試験を受験するが、失敗。スイス・アーラウのギムナジウムに編入する。ギムナジウム卒業によって大学入学資格を取得、1896年、晴れてチューリッヒ連邦工科大学へ入学する。
【職務経歴編】Tech総研編集部の仮説 独学で高度な物理学・数学を習得し、科学史に残る数々の論文発表をアピールするはず
1900年(21歳) チューリッヒ連邦工科大学を卒業
卒業後
  ・チューリッヒ連邦天文台の計算助手
  ・ヴィンテルトールの職業技術学校の臨時教師
  ・シャフハンゼンの家庭教師
1901年(22歳) 最初の論文を発表……(ポイント1)
学術誌『物理学年報』に、最初の論文「毛管現象からの帰結」を発表。
1902年(23歳) スイス連邦特許局に勤務
ベルンにあるスイス連邦特許局に見習技官として採用。3級技術専門職。
モーリス・ソロビーヌ、コンラッド・ハビヒトらと「アカデミー・オリンピア」を結成。物理学だけでなく、哲学や文学にまで及ぶ広範な議論を重ねる。
1904年(25歳) ベルン特許局の正職員に昇格……(ポイント2)
ベルン特許局に正式採用となる。
特許申請があった案件について、その是非を審査する業務を担当する。
昼間は特許局での審査業務を遂行し、業務終了後は、「アカデミー・オリンピア」での議論や自宅での研究・思考実験を通じて、広範な物理学の知識を深めた。
なお、1902年から本年までに、主に熱力学に関する論文4本を発表する。
1905年(26歳) 「特殊相対性理論」を発表……(ポイント3)
ベルン特許局での職務の傍ら、以下の6本の論文をこの年一気に発表。
  ・「光の発生と変換に関するある発見法的な見方について」
 それまで光は波だとされている定説に対し、粒子としての性質もあるとする光量子仮説を打ち立てた内容。
  ・「分子の大きさの新しい決定法」
 液体溶液の粘度に着目し、その性質に基づいて、分子の大きさを算定する方程式を導き出す方法。
  ・「静止流体中に浮遊する粒子に対して熱の分子運動から要求される運動」
 液体に浮いた粒子の振動運動が、分子の熱運動(ブラウン運動)によるものであることを指摘し、分子が実在することを証明。
  ・「運動する物体の電気力学について」
 不変なのは光の速度だけで、時間も空間も観測者との相対的関係において変化することを理論化。それまでの時間と空間の概念を覆す、特殊相対性理論に関する最初の論文。
  ・「物体の慣性はその物体のエネルギー量に依存するか」
 特殊相対性理論の2番目の論文。どんな種類の質量もエネルギーをもつ(その逆も成り立つ)ことを証明し、E=mc2の関係式を発表。
  ・「ブラウン運動の理論について」
 分子の熱運動に関する論文を一般化し、回転の熱運動にまで拡大。「拡散係数」と呼ばれる関係式を完成。
1906年(27歳) 連邦特許局2級技術専門職に昇進
ベルン特許局で、2級技術専門職に昇進。
1907年(28歳) 「E=mc2」を発表……(ポイント4)
質量とエネルギーを完全に等価なものとして見る公式、E=mc2を『放射能学年報』に発表。 「一般相対性理論」への道を開く重力と慣性力の「等価原理」と重力の影響によって光がわん曲することを発見。
1908年(29歳) ベルン大学に私講師として勤務
特許局での仕事を続けながら、ベルン大学で私講師として教壇に立つ。
【職務経歴】 Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 アインシュタインは、決して華々しくそのキャリアをスタートさせたわけではない。それどころか、大学卒業後は臨時教師や家庭教師に雇われて各地を転々とすることで、ようやく糊口をしのいでいた。しかし、そうした逆境にあっても、怠惰に埋没したり、理想を捨てたりすることなく、努力を怠らずに最初の論文発表を成し遂げている(ポイント1)ことから、彼の不屈の精神と、物理学に対するあくなき探究心をうかがわせる。

 ベルン特許局に見習技官として職を得た後、その立場に満足することなく、正職員に昇格している(ポイント2)。一方で、論文発表も途切れることなく続けている。これは、組織の一員として本業を怠ることなく、きちんと評価されるだけの成果を上げながら、同時に、自分自身の研究テーマも変わらずに追い続けていたことを表している。仕事と研究を両立させるだけの熱意とタフさを感じさせるものだ。
 
 物理学の歴史で「奇跡の年」と呼ばれた1905年の論文発表については、職務経歴の中でも特にボリュームを割いている(ポイント3)。世界中の科学者に衝撃を与えた6本の論文について、そのポイントを簡潔に述べることで、自らの着想の非凡さ、研究のユニークさ、理論構築の確かさをアピール。また、「特殊相対性理論」を語るうえで最も有名な公式の発表を強調すること(ポイント4)で、余人を持って代え難い才能の持ち主であることを印象づけている。
職務経歴作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 職務経歴編
【自己PR編】Tech総研編集部の仮説 物理学への情熱をアピールし、大反響を得ている論文のさらなる展開を期待させるはず
自己PR 「10歳のころ、『ピタゴラスの定理』の証明法を独学で見つけ出すなど、幼少期から物理学・数学を得意としてきました。独創的な創造力を駆使して、誰も思いつかなかった論理を組み立てることには情熱を感じます。スイス連邦特許局では、特許申請の案件が実現可能なものであるか否かを審理する際に、私がこれまで身につけた豊富な物理学の知識が役立っています。日常業務を遂行しながら、世界中の科学者から注目される論文を発表できたのは、仕事と研究のバランスがとれていたからではないかと思います。もし大学に残っていたら、学閥間の競争などに縛られて、自由な発想はできなかったかもしれません。さらに、特許局で『もしもだれかがこの窓から落ちたら、その人は落下する間、重力を感じないかもしれない』というひらめきを得たことから、特殊相対性理論を物理現象一般に拡張することが可能なのではないか、と思い至りました。この先は、より研究に専念できる環境で、世界に先んじた物理学の新理論を打ち立てたいと考えています」
自己PR Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 物理学への興味と関心、もてる知識が人並み以上であること、仕事上でもその知識が大いに役立っていることが伝わってくる。また、公の仕事と論文執筆のどちらもおろそかにすることなく、これまで両立させてきた実績は評価に値する。「特殊相対性理論」は既に大きな反響を得ており、この時点でアインシュタインを獲得することは、科学の世界で世界最先端の頭脳を得ることにつながるとの期待感を抱かせる自己PRになっている。
自己PR作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 自己PR編
【キャリアプラン編】Tech総研編集部の仮説 自分の理論が将来何をもたらすのかを示唆し、その実現のための環境を求めるはず
次のキャリアで
実現したいこと
「『特殊相対性理論』を拡張し、あらゆる物理法則に適用できる『一般相対性理論』を確立することを目指しています。これによって、時間と空間の概念は一変し、私たちを取り巻く世界はまったく新しい姿として認識されるはずです。ニュートン力学がもとになって内燃機関がつくられたように、『一般相対性理論』の確立と応用によって、私たちは新しいエネルギーを手に入れることができるようになるかもしれません。さらに研究が進めば、ニュートン力学と電磁力学の統一も可能ではないかと考えています。そのために、研究に集中できる環境を欲しています。具体的には、学校運営への従事や授業の縛りのない大学教授の職を希望します」
キャリアプラン Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 理論物理学の応用がどのような社会的価値を生み出すのか、それを具体的に明示することは難しいが、アインシュタインは少なくとも、「新しいエネルギー」を獲得することになるかもしれない可能性を示唆している。もしそうなれば、世界を変えてしまうというのも誇大な発想ではないだろう。アインシュタインのキャリアプランを認めることで、彼を採用する側もともに、世界を変える科学の進歩の支援者となれる期待感を抱かせる。いわば夢の共有だ。
キャリアプラン作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 キャリア編
レジュメのポイント 決して思いどおりではなくても、あきらめずに追い求め続けることが道を開く
 今回のアインシュタインの「レジュメ」では、彼の21歳から30歳までを職務経歴とした。チューリッヒ連邦工科大学を卒業したアインシュタインは、ベルン特許局の職員となり、特許局の仕事を続けながら、「特殊相対性理論」をはじめとする画期的な論文を発表。一躍、世界の有名科学者の仲間入りを果たす。そして、研究生活に打ち込むため、特許局を退職して大学教授の職に就くことになる。その後は、「一般相対性理論」の発表、ドイツ・ベルリンへの移住、ノーベル物理学賞受賞と輝かしい日々が続く。

 まるで映画スターのように行く先々で歓迎されたアインシュタインだが、そのキャリアの初めでは、何度も大学に職を得ることを希望しながら、なかなか受け入れられることはなかった。しかし、もしベルン特許局勤務で満足し、大学進学をあきらめ、研究を断念していたら、無論「特殊相対性理論」は生まれていないだろう。

 手に入った環境が100%満足のいくものではないからといって、そこで投げ出してしまっては、本当に満足できる未来は手に入らない。今回の「レジュメ」は、そうした教訓を教えてくれるものでもある。どんな環境にあっても全力投球することが、新しい可能性を開くことにつながるのだ。

 皆さんも、未知なる可能性にかけて、ご自身のレジュメを作ってみてはいかがだろうか? そこにはきっと、自分自身が今まで気づかなかった新たな発見があるはず。

コラム 天才アインシュタイン、30歳からの“ホントの人生”は……
 現実のアインシュタインは、30歳のときにチューリッヒ大学の準教授となったのを皮切りに、各国の大学や研究機関から引く手あまたの誘いを受けるようになる。さらに「一般相対性理論」が世界に認められたことにより、その名声は揺るぎないものとなるが、戦争がその運命を翻弄する。また、後半生を「統一場理論」の完成に捧げるが、それはついに成し遂げられないまま、生涯を終えることになる。ここで、アインシュタインのその後の人生を簡単に紹介しておこう。

1909年(30歳) ベルン特許局を退職、ベルン大学の私講師の職も辞して、チューリッヒ大学の理論物理学の準教授(員外教授)となる。
1911年(32歳) チェコのプラハにある、カール・フェルディナンド大学に理論物理学の教授として着任。この年、「光の伝播に対する重力の影響」を発表。
1912年(33歳) スイスのチューリッヒに戻り、チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任。
1914年(35歳) ドイツから誘われて、ベルリンに移住。ベルリン大学の教授、プロシア科学アカデミーの会員となる。
1915年(36歳) ドイツ国立物理工学研究所(カイゼル・ウィルヘルム研究所)の客員研究員となる。相対性理論の拡張と重力に関する論文の中で、太陽による光のわん曲の正しい数値を予測。
1916年(37歳) 「一般相対性理論の基礎」を発表する。
1919年(40歳) イギリスの日蝕観測隊によって、光のわん曲が確認され、「一般相対性理論」が立証される。
1920年(41歳) オランダのライデン大学の客員教授に任命される。
1921年(42歳) チェコ、オーストリア、アメリカ、イギリスを歴訪する。
1922年(43歳) フランス、続いて日本を訪問する。日本への船旅の途上で、ノーベル物理学賞受賞の知らせを受ける(受賞は、光量子の理論に対して)。国際連盟学芸協力委員に任命される。
1923年(44歳) パレスチナとスペインを訪問。
1924年(45歳) ドイツ・ベルリンに戻って研究生活を再開。「統一場理論」の研究に着手する。
1928年(49歳) 「重力と電気の統一場理論」を発表。
1930年(51歳) アメリカ・パサデナにあるカリフォルニア工学研究所の客員教授となる。この年から33年まで、毎年冬になると渡米を繰り返す。
1933年(54歳) ドイツで、ヒトラー率いるナチス党政権が誕生。ユダヤ人追放が始まる。身の危険を感じたアインシュタインはアメリカからの帰途、ドイツへは戻らず、ベルギーに滞在。ナチス政府はアインシュタインに対し、プロイセン科学アカデミーからの除名、ドイツ国内の財産没収などの措置に出る。アインシュタインは、アメリカへの移住を決意。米ニュージャージー州に新設されたプリンストン高級研究所の教授として迎えられる。
1934年(55歳) ドイツ国籍を剥奪される。
1938年(59歳) プリンストン高級研究所で、ポーランドの理論物理学者、レオポルト・インフェルトと共同で『物理学はいかに創られたか』を出版。世界的なベストセラーとなる。
1939年(60歳) ナチスが原子爆弾開発に着手したとの情報を得て、それに対抗すべく、当時のアメリカ大統領ルーズベルトにあてて、原爆開発をすすめる手紙を送る。
1940年(61歳) アメリカ市民権を得る。
1945年(66歳) プリンストン高級研究所の教授職を辞し、名誉教授となる。「非対称テンソルにもとづく統一場理論」を発表。
1948年(69歳) 手術により、腹部大動脈に動脈瘤が発見される。
1952年(73歳) イスラエル大統領への就任要請を受けるが、これを固辞。
1955年(76歳) 腹部大動脈瘤が破裂、プリンストン病院にて死去。葬儀はごく親しい者12人だけで執り行われ、遺体は火葬されたが、その遺骨がどこに葬られたかは、遺言により公表されていない。
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山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ
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アインシュタインといえば、相対性理論。今回、改めて彼の資料を調べる中で自然と「相対性理論とは何ぞや?」という、昔からずっと抱き続けていた疑問を解き明かそうと試みたのですが……。その結果はさておき、彼のような生粋の研究者の転職先のイメージって、皆さんお持ちですか? 私の場合、頭に浮かんだのはありきたりですが、「NASA」でした。
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