一心不乱に働けることは素晴らしい
いいじゃないか。一心不乱に働けるって素晴らしいことだよ。仕事が生き甲斐で何がいけないんだい?仕事が趣味じゃ何故いけないんだろう。よくわかんないなあ。思いは千々に乱れる僕から見たら、羨ましい限りだよ。
一心不乱に打ち込むことができるのも、才能のひとつなんだ。仕事がイヤでつまんない上に、趣味も生き甲斐もないのだったらしんどいと思うけど、あなたは今まで気づかなかったほど、仕事優先で一心不乱に働いてきたって言える。だったら何も悩むことはないじゃないか。
今の時代、情報が多すぎるんだよね。雑誌を見ても生き甲斐探しの特集なんかがいっぱい載ってる。そうなると「この人たちは生き甲斐を持ってこんなに楽しんで生きているのに、自分にはない」って焦るんだよな。あなたが妻子ある友人の一家団欒を見たってことも、一種の情報なんだよ。情報が増えるとどうなるかというと、ゴールとスタートが一緒になってしまうんだ。
つまり、生き甲斐とか人生を楽しむっていうことは、積み重ねてきた結果論として「ああ、これが生き甲斐だったんだ」とわかったり、死ぬ前に「人生楽しかったな」と思うものなんだ。それを無理に探したり、何か新しく始めなきゃならないって考えるわけだよ。それじゃあキツイでしょう。もちろん、生き甲斐探しが生き甲斐だったり、趣味探しが趣味であってもかまわないけどね。
そもそも、あなたを呼んだ友人だって、見栄を張ってるかもしれないんだ。友達呼んでわざわざ夫婦げんかはしないでしょ。ご馳走だって出すだろうし、部屋の掃除だってするだろうよ。その芝居にダマされなさんな(笑)。自分が持っていないモノが良く見える気持ちはわかる。でも、妻子ある友人だって、あなたの独身生活を自由で羨ましいと思ってるかもしれないよ。
「生き甲斐」という言葉に呑み込まれない
あなたはすごく真面目なんだろうな。だからこそ、生き甲斐はあるべき、楽しくあるべきって「べき論」で考えちゃうんじゃないか。でも、そうじゃなくて、生き甲斐もあり、人生を楽しむのもあり、それがなければそれもまた善し、とする考え方でいいんじゃないだろうか。人生を楽しむっていうのはさ、エンターテインメントやアミューズメントみたいに盛り上がった楽しみ方じゃなくて、ラクにほんわかと楽しめることだって、いいと思うんだよね。
生き甲斐を持ってるなんてぬかすヤツがいたら連れて来い、って言いたいよ。みんな生き甲斐とか生き様とかさ、その言葉に呑み込まれちゃってるんだよ。だから「何が生き甲斐なんだろう」って悩んだなら、その「生き甲斐」って言葉が自分にとってどういう意味なのか、引きつけてよく考えてみればいいんだよ。そうやって言葉に呑み込まれないようにすれば、見えてくることはいっぱいあるはずだよ。
あなたも自分で自分の「生き甲斐」の定義を考えてごらん。時間を忘れて一心不乱に取り組むものをそれと解釈するなら、ちゃんとあるじゃないか。
それから、人生を楽しむ秘訣を言うなら、「自分を好きになること」。それだけだよ。人を羨むんじゃなくてね。友人の芝居にダマされてる可能性だってあるんだし、相手だってあなたを羨ましく思ってるかもしれないんだから、「自分だって捨てたもんじゃない」と自信を持ってほしいな。