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「今の仕事、何となく違う…」という違和感は、本気で探りにいけ――59年ぶり日本一・立教大学野球部溝口監督のキャリア論

今年、59年ぶりに大学野球の頂点に輝いた立教大学野球部。日本一が決まったその瞬間、神宮球場の宙に舞った溝口智成監督は、“脱サラ監督”として数多くのメディアから注目されている。

現役引退後、一度は野球から離れることを決意。実際15年近くも優秀な会社員として過ごしていたが、なぜまた野球の世界に戻ることになったのか?新米監督としてどのように選手たちと向き合い、日本一のチームに育て上げたのか?そこには長年キャリア開発に携わった溝口監督ならではの、人材育成に対する哲学があった。

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溝口智成(みぞぐち・ともなり)

1967年生まれ、神奈川県出身。湘南高校を経て、1987年立教大学野球部に入部。ポジションは一塁手。89、90年の東京六大学秋季リーグでは優勝を経験、ベストナインにも選出された。卒業後は硬式野球部設立直後のリクルートに入社し、社会人野球で約6年間プレー。97年に引退してからは、主にキャリア開発にかかわる業務についていた。しかし2014年、退職して母校である立教大学野球部監督に就任。4年目の今年、チームは59年ぶりの日本一の栄冠に輝いた。

初めての“野球のない生活”で、改めて野球の魅力を実感

―まずはご自身の野球歴を教えてください。

野球を始めたのは小学2年生から。立教大学野球部時代はキャプテンを務め、2回の秋季リーグ優勝も経験しました。大学卒業後は、前年に硬式野球部が創設されたばかりのリクルートに入社。「仕事をしながら、本気で都市対抗野球部を目指す」という目標に魅かれて入社を決めました。

―どんなチームでしたか?

新しいチームならではの苦労がありましたね。大学野球でそれなりに活躍した選手が集まっていたので実力はあったのですが、組織としての方向性が固まっていなかったためチームとしてのまとまりがなく、最後に全員が一体となって勝ちを取りに行くような戦い方ができなかった。2年目からはキャプテンになり、その後選手兼任コーチにもなりましたが、どうしてもうまくいかない……。大好きな野球なのにグラウンドに行くのが憂鬱なときもあって、辛い時期でした。

―それで現役引退を考えたのですか。

ちょうど肉体的に故障が増えたこともあって、自分から仕事に戻らせてくださいと言いました。コーチとして残らないかとも言われましたが、今の状態で残るのも違うような気がして、すっぱり野球から離れることにしました。

―最初の配属は財務だったそうですね。

希望を訊かれたのですが、それまで野球しかしてなかったので、わからないからお任せしますと言ったら、まさかの財務(笑)。厳しい先輩にゴリゴリしごかれましたが、自分から言い出したことですし、新入社員のつもりで、社会人のイロハから勉強しました。

―3年で営業に異動。これも自分から希望したとか。

3年経って財務の仕事の方も少しはできるようになったんですが……やっぱりどこかで野球に比べてしまうんですね。どんなに仕事をしていても、喜びがない。手応えというか、やりがいというか……。これがやりたい仕事なのかという違和感がぬぐえなかった。それと、リクルートにいるからには一度は営業をしなきゃということで、希望して営業に移ったんです。

もちろん今回も自分から言い出したことですから一生懸命やりました。でもやっぱり喜びがないんです。この仕事を一生続けていくイメージも持てず、こんな気持ちで仕事していていいのか、もう少しやりがいを持って仕事しないと申し訳ないという気さえして……。確かに成績は良かったし、何度か社内表彰もされましたが、精神的には苦しかったですね。

―仕事と野球、何がそんなに違ったんでしょう?

単純に、野球より好きなものがなかったということだと思います。勝つために努力して、それが花開いた瞬間の涙が出るほどの震えとか、魂が揺さぶられる感じ。それが野球にはあって、仕事にはなかったということですね。

―野球に近い世界に転職しようと考えたことはなかったのですか?

ありますが、実は野球って、プロでもない限りあまりお金にならないんです。そもそも求人がほとんどありません。実際にどこかで監督の実績を積んだ人ならともかく、教員免許も持ってない、監督経験もない人間に声がかかるほど甘い世界ではないですから。

―野球の世界には戻れない。でも仕事のやりがいも感じられない。それでどうしたのですか?

もうちょっと個人の「ありがとう」に触れられる仕事の方がいいかもしれないと考え、キャリアカウンセラーの資格を取りました。ちょうどキャリアアドバイザーの社内公募があったので応募して、やってみたら確かに面白かったですね。その後、研修トレーナーの勉強もして、2回ほど実際に企業研修もしました。その直後に監督になったんです。

―せっかくトレーナーデビューしたのに、辞めちゃったんですね。

実はトレーナーデビューの前に監督の話があり、一部の人にはもう「せっかく養成していただいたのに申し訳ありません」と言いながらのデビューだったんです。ただ、これで最後という開き直りがあったせいか、すごく良い研修ができたし、自分でも初めて仕事に手ごたえを感じられたのを覚えています。

新米監督デビュー――チームに溶け込もうと手探り状態

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―母校の野球部監督の話は、いつごろ、どのように来たのですか?

話があったのは2013年10月です。実は僕がキャリアカウンセラーの資格を取ったのにはもうひとつ理由があります。現役を退いてしばらくしてから十数年間、ボランティアで野球部の学生の就活支援をしており、それでちゃんと資格を取っておきたかったんです。監督としては未経験ですが、そういう貢献も評価されて候補に挙がったようです。

―トレーナーとして初めてやりがいが持てたのに、監督就任の要請。悩みませんでしたか?

実は悩んでないんです。もちろん親や家族は心配しましたが、僕の中では監督になれる喜び以外何もなくて。なにしろ、たとえば酒飲み話で「明日死ぬと言われたら何をしたい?」と言われたら、いつも「母校の監督」と答えていたくらいですから。むしろこのチャンスを逃すものかと(笑)。着任よりも先にすでに練習に参加していました。

―新人監督として、どのようにチームに溶け込んで行ったのですか。

それはもう手探りです。就活の手伝いをしていたとはいえ、野球の現場からは15年くらいも離れていましたから。ただ、僕は現役時代に2回リーグ優勝しているので、そのときの経験を思い出しながらチームに入っていったという感じです。

―監督の時代と今とでは、学生の気質もずいぶん変わったのではありませんか?

それはもう驚きましたよ(笑)!表面上は仲がいいんですが、同じチームにいながら、互いに深く関与したがらない感じでしたね。自分から積極的に「もっとこうしようぜ」と提案することも、あまりなかったですね。

例えば、こんなことがありました。寮の裏に自転車置き場があるんですが、みんなメチャクチャな並べ方をしていたんです。そこで監督になってすぐに寮長を呼んできちんと並べろと言ったら、素直に「わかりました」と。でも次の日見たら、まったく直っていない。そこでもう一度寮長を呼んで、ちゃんと全員に伝えたか尋ねたら、「はい、メーリングリストで回しました」。伝えていることは伝えているけど、本当にそれで伝わるのかって話です。

―今年の立教大学野球部は、部員数191名とか。それだけの大所帯を率いるのは、こういった状況の中でかなり大変ですね。

そうですね。元々は大変でしたが、今は部員がかなり自発的に動いていますので、昔ほどではありません。

―大学野球の監督って、どんな立場なんでしょうか?聞いていると、企業の社長ともプロジェクトを率いるリーダーとも、ちょっと違う感じが…

うーん…学校の先生が一番近い気がします。僕としては、選手たちには野球の技術以上に、社会に出る前に、ハキハキ挨拶するとかスリッパや自転車をきちんと並べるといった、人としての振る舞い方や考え方を身につけて欲しい。だから指導の中で野球の技術を教えるのは2割くらい。8割はそういう生活面や考え方を教えている感じでしょうか。プロや社会人野球と違って、大学野球のミッションは優勝ではない。もちろんプレッシャーはありますが(笑)、それよりも立教大学野球部員として、きちんと卒業していって欲しい。やはり学校の先生だと思います。

研修トレーナーとして学んだ大切なこと――「人はみんな成長したいと思っている」

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―会社員時代の経験が役立ったことはありますか?

やはり研修トレーナーをやったことは大きいですね。トレーナーを経験して学んだ一番大きなことは、「どんな人も、最終的に、成長したいと思っている」ということです。研修に来いている人って一律じゃないですよね。会社の命令で渋々の人もいれば、意欲満々の人もいる。選手も同じです。やる気のないのもいれば、言っても聞かないのもいる。でもみんなどこかで、成長したい、前に進みたいと思っている。誰もがそういう存在だという前提でいれば、「今はあんな風に言っているけど、どこかで成長する時期が来る」と思える。選手と接するとき、大いに役立っています。

―そして4年目にして、18年ぶりの東京六大学春季リーグ優勝、さらに59年ぶりの大学野球日本一。チームとしてどのような変化や成長があったのでしょうか?

僕がずっとイメージしていたのは、チームとしての一体感がある野球。さきほども言ったように、僕が学生時代に優勝を経験したときのチームのイメージです。過去の経験からわかっていたのは、どんなに個人の技術が高くても、最後の最後に勝ちを掴みに行くためには、プラスアルファの力、すなわちチーム力が必要だということ。そこで今年は「戮力同心」というスローガンを掲げました。

―りくりょくどうしん。聞き慣れない言葉ですね。

心を合わせて協力する、という意味です。実は今年の冒頭に宣言したんです。「新人監督の任期は4年。最後の年にあたり、今年のチームで必要と思うことを強い気持ちでやっていくから、お前たちも覚悟してくれ」と。そして一体感を表わすスローガンを選んで来いと言ったところ、彼らが選んできたのがこの言葉です。

―一体感を大切にした結果、実際に優勝できた。選手たちには大きな経験ですね。

彼らにとっては一生の宝物になると思います。ただ、来年も同じように戮力同心でうまくいくとは限らないのが難しいところですね。学年によって本当に気質が違いますから。その場に集まった顔触れを見て、すばやく気質や傾向を把握して研修を進めるトレーナーと、そこも似ているかもしれません。

ただ、以前と違うのは、実際に一体感を大切にしたチーム作りで実績を上げることができたので、次からはどんなに個性の強い選手が集まっても、チーム力が大切だと指導することができる。僕にとっても貴重な経験になりました。

前に踏み出して失敗しても、それは「良い失敗」。きっと次につながる

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―監督はビジネスマンとしてのキャリアから野球の世界に戻りましたが、新しいチャレンジをためらっている人にアドバイスするとしたら?

僕にとっての野球のように、寝食を忘れるほどやりたいことがあるんだったら、自分を信じて踏み出すしかないですよ。まして20代、30代だったら心配することなんてない。経済的な不安があっても、一生懸命やっていれば応援団もついてきて、きっとなんとかなります。

―でも会社員時代の監督のように、「なんとなく今の仕事は違う」と、漠然とした違和感を抱えている人もいると思うのですが。

大切なのは、その違和感を本気で見つけに行くことじゃないでしょうか。僕自身は、仕事を移るのに自分の意志を反映しなかったことは一度もないんです。現役を引退した時もそうだし、財務から営業に移ったときも、キャリアアドバイザーになったときもそう。そんなとき自分を動かすエンジンになったのは、思い返すといつも「違和感」だった。そしてどんな仕事にも一生懸命取り組みましたが、常に自分が喜びとするものとのギャップがあったから、じゃあ今度はこっちでやろうと動いてみた。最後の研修トレーナーでやっと手ごたえが感じられたので、監督就任の話がなかったら、たぶんそのままトレーナーをしていたと思います。

―それでも、新しく踏み出してみたその先で失敗するかもしれないという不安はあります。やっぱりあのままでいればよかったと、後悔するのが怖い……。

失敗には「良い失敗」と「悪い失敗」があると思うんです。今回、日本一になりましたが、実は難しいのはこの先だと思っているんです。東京六大学は、春秋連覇がとても難しい。それくらい力が拮抗しているんです。だから今、選手には「そこを抜けるためにはレベルアップが必要」と言っています。チーム力も個人の力も、春より格段にアップしたと、外から見てわかるくらいでないと連覇はできない。そのためには、一歩前に出ろ。今までは待って取っていたボールを、一歩前に出て取れ。それで失敗しても、踏み出そうという意図がわかればそれは「良い失敗」。むしろ失敗を恐れて今まで通りのプレーを続けようとする方が「悪い失敗」だ、と。

―自分から掴みに行った結果の失敗は、いい失敗。

そう思いますね。僕自身も、違和感を感じて財務から営業に行ったのに、結局違和感はなくならなかったのだから、失敗だったという見方もできます。でも失敗したと下を向くのではなく、常に新しいチャレンジで違和感を拭い去ろうとしてきたから、今の自分があるのだと思います。

―それでは最後の質問です。母校の監督になって後悔した瞬間はありますか?

まったくないですね(笑)!そりゃあ、苦しかったことはあります。個人の実力はあるのに、チーム力がないばかりに最後に脆さが出て、結局勝利を掴めなかったということもあった。とにかくガマンするしかなくて、そういう苦しさはありました。でも、監督になったことに対する後悔はまったくありません。朝から晩までグラウンドにいても疲れないし、休みが欲しいと思ったこともない。人生最高の仕事に就けたと思っています(笑)。

取材・文/小野千賀子 写真/新井谷武廣