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我ら“クレイジー☆エンジニア”主義! vol.33 全盲者に「見えた」と叫ばせた!視覚代行機“オーデコ”開発者・菅野米藏
額に送られる電気刺激で目の前のモノを認識することができる、世界初の視覚障害者用感覚代行機「AuxDeco(オーデコ)」を開発した菅野米藏氏。“触らずにモノが認識できる”技術は、すでに国内外で大きな反響を巻き起こしている。
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/宮みゆき 撮影/栗原克己)作成日:09.02.05
クレイジー☆エンジニア
株式会社アイプラスプラス
代表取締役社長
菅野米藏氏
“ミラクル・テクノロジー”と評した外国メディアもあった。日本でもテレビが次々と取り上げ始めている。日本発の技術が、世界に大きな反響を巻き起こした。“触らずにモノを認識する” 視覚障害者用感覚代行機「AuxDeco(オーデコ)」だ。これまで視覚障害者、特に全盲者がモノを認識するには、じかに触ったり、白杖のようなもので探りながら行うしかなかった。
しかし、額に取り付けるオーデコは、カメラがとらえた映像をコンピュータで画像処理し、輪郭だけを取り出し、電気刺激にして額に表示する。“触らずに、わかる”ことは、視覚障害者にとって、とてつもない出来事なのだ。開発を手がけたのは、福祉機器開発を手がけるベンチャー企業の経営者、菅野氏。アイワを経て、日本IBMでシステムエンジニアとして活躍。大証ヘラクレス上場企業イーシステムの立ち上げに参画し、2004年まで取締役副社長を務めていた人物である。
機械いじりが好きだったのに、貿易に興味が
 実は私は文系出身なんです。子どものころから機械いじりが大好きだったんですが、生まれた家が小さな呉服屋を営んでいましてね。そこに出入りしていた問屋さんからいろんな話を聞いて、貿易の世界に憧れたんです。福島県の、赴任教員には遠方地手当が出るような小さな街。そんな田舎にいたからこそ、海外の広い世界に憧れたのかもしれません。

 同級生たちの親はほとんどが農業を営む中で、呉服屋は珍しい存在でした。それでも、首都圏の私立大学に子供を行かせるほどのゆとりは家にはありません。進学するなら、地元の国立大学。そう親からは言われていました。ところが、たまたま高校の先生が、学費が免除になる給費生の試験が年末にあるけれど、受けてみないか、と言ってくれて。これで、田舎から出てくることができたんです。

 でも、学生時代は生活費を稼ぐためのアルバイトづけでしたけどね。家庭教師もしましたし、モノづくりが好きでしたから大田区のプラスチック工場で成形の仕事をしたり。おかげで、プラスチック成形の仕組みはよくわかりました。

 ラジオを作ったりするなど、電気が好きだったこともあって、就職先に選んだのはアイワ。当時、アイワは90%が輸出だったんです。これなら貿易に携われる、と思ったらニクソンショックが起きて。急激な円高に見舞われて、輸出が半減。入社から1年たたないうちに、輸出の部門から横浜営業所での国内営業に異動したんです。

 それも天命と思って頑張ろうと思いました。“門前の小僧”ではないですが、商売の家で育っていますから、モノを売ることには抵抗はない。しかも、電気が好き。量販店を担当したんですが、営業コンテストでは2位になりました。でも、若かったんですね。営業ってこんなものか、と思って。2年で辞めてしまうんです。
日本IBMへの転職。神様は見ている、と思った
 日本IBMを薦めてくれたのは、今も付き合いのある親友でした。独身でしたし、あまり後ろ向きなことは考えない性格、当時は珍しかった転職にも抵抗はありませんでした。入社した1973年ごろは、日本IBMが大きく伸びていて、毎月のように中途採用を行っていました。電気は好きですから、コンピュータにはもちろん関心があった。前職は営業でしたが、まずはコンピュータがどういうものか勉強したいと思っていました。それで、コンピュータそのものの性能機能を追求する、開発系のシステムエンジニアに応募したんです。

 入社から3カ月間、6畳くらいの何もない部屋に閉じこめられて、膨大な量のコンピュータのマニュアルを読みこなす日々。しかも全部、英語。これはつらかった。でも、まずは3年やってみよう、と思いました。そう開き直ると、つらさはだんだん減っていって。むしろ、プログラミングの面白さに気づいた。当時は、パンチカードを入れてコマンドを理解させた時代。私の最初の仕事は、それをオンライン化する処理プログラムを実現させることでした。コンピュータが高価な時代ですから、社内のマシンも昼間はお客さま向けのテストで使う。私たちが使えるのは夜なんです。冷え切った仕事場で、夜中に黙々とマシンに向かったことを覚えています。

 もともと貿易や海外に興味があった。日本IBMに入社が決まって、真っ先に取りに行ったのがパスポート。いつか、これが生かせるようになるまで頑張ろう、と。それが28歳でかなうんですね。担当した業務について世界各国の混成部隊で開発する6カ月のプロジェクト。赴任先はドイツ。海外渡航はまったくの初めて。本当にうれしかった。プログラミングに没頭しました。また海外に出たい、と思いました。

 日本IBMには開発部門への海外駐在がありました。任期は3年。でも、たくさんの先輩が待っていて、自分の順番はまだ先だと思っていた。ところが34歳のとき、奇跡が起きるんです。ドイツの研究所が、ヨネゾウ・カンノを寄越せ、と言ってきた。5年前の仕事ぶりを見ていてくれたんです。前代未聞。しかも、まだ若かった。なのに、マネジャーとして複数のプロジェクトに籍を置かせてもらって。すべての仕事は未来につながっている、と思いました。頑張ったことを、ちゃんと神様は見てくれていたんだ、と。
のたうち回ってもいいから、ゼロからやってみたい
 日本に戻ってきたのは、1986年。このあたりから、営業系の仕事に携わるようになります。これがまた面白くて。営業現場もやってみたい、と希望して1990年には名古屋支店に行きました。システム室長として、サポートSE部隊を全員マネジメントする役割。ただ、赴任の前にトラブルが起きていて、最初の仕事はお客さまに謝罪すること。お客さまと真剣勝負をする仕事なんだな、と実感しました。ただ作るのではなく、それがお客様の業務にどう活用されているのか。それを知りたかった。

 そして、この名古屋時代、今も覚えているのが、アメリカの飛行機メーカーとのビッグプロジェクトでした。そのメーカーは日本の航空機メーカーにそれまで飛行機のパーツを発注していましたが、新型ジェット機の製造が決まり、そこからは部分を丸ごと発注する開発方式に切り替えたんです。さらに、開発設計の全工程にコンピュータを用いることになった。それまで飛行機はすべて部分ごとに実物大のモックアップを作っていたんです。それを三次元CADソフトで行い、電子モックアップの手法で開発するという。そのために、メーカーの持っているのと同じシステムを、日本の参加メーカー側にも導入することになりました。これほどのビッグプロジェクトはそうそうない。燃えましたね。

 その後は本社に呼び戻されて役員補佐の仕事を任されました。独立したいという気持ちが強くなっていったのはこのころ。また営業現場に戻してもらい、営業とSE、両方を見る経験をしました。お客さまの大企業トップと話をする機会もありましたが、やっぱり創業社長は面白かった。のたうち回ってもいいから、自分もゼロから創業してみてもいいかな、という気持ちがますます高まるんです。

 1995年に退職を決め、最初は自分でソフトウェア会社を立ち上げました。売れるソフトができて軌道に乗っていたとき、今度は友人から立ち上げた会社を手伝ってほしいと言われて。週1回、ミーティングに参加する約束が、どんどん成長を始めていった。2001年には上場。取締役副社長としてSEと営業100人ほどを見ていました。でも、このころには、もうオーデコの研究を進めていたんです。
オーデコ
 
■オーデコ

これがオーデコのシステム一式。カメラを内臓したヘッドバンドを額に取り付ける。カメラの映像はコンピュータで画像処理し、輪郭だけを取り出した映像を電気刺激にして表示する。額に電気刺激を表示するのは、縦16横32、合計512の電極板だ。この電極板が、輪郭を映像として浮かび上がらせる。
オーデコ試作品
 
■オーデコ試作品

こちらは製品化される前の試作品。サングラスにカメラを取り付け、電気刺激を表示する電極板とは分離していた。「でメガネとヘッドバンドが別だと装着するのに、かなり手間がかかる。そこで一体化を考えたんです」。映像を処理するコンピュータも、小型化、軽量化に挑み、製品化された今は、3分の1ほどの重さになっているという。
実際の場面
 
■実際の場面

実用化にあたっては、何度も実験を重ねた。歩いていて、歩道に自転車がはみだして止まっていたら、そのはみ出した状態が額でわかるわけだ。「実はこの『わかる』というのが、視覚障害者にとっては、とてつもないことなんです。なぜなら、触らないものは、彼らにとってわからない世界だったから」。触らなくてもわかる世界を提供できることは、本当に画期的なことだった。
 きっかけは、自宅から都心に向けて通勤していたころのこと。季節は春。盲学校の生徒が、バス停に大勢並んでいる光景が目に入ってきた。春という始まりの季節。多くの人が心を躍らせる気持ちのいい季節に、1人の男の子の顔が不安そうに見えた。せっかくの新学期に目が見えないことから危険におびえている。何かこの子の役に立てるものを作ってあげられないだろうか。ふと、そんな思いが浮かんだ。福祉機器には、それまでまったくかかわったことはなかった。だが、モノづくりへの関心はIT企業の経営に携わっても変わっていなかった。インターネットで見つけた高校の物理学の先生のサークルに参加、月に一度、いろんな実験に携わっていた。ここでの活動もヒントにしながら次第にアイデアを固めていく。そして特許を出願した。
まさかと思っていた特許取得。神の啓示と思った
 これは私自身、研究を始めてからわかったんですが、視覚障害者というのは、大変な危険の中で生活しているんです。障害には度合いがあって、ぼんやりと見える人もいれば、まったく見えない人もいる。でも、いずれにしても街中を白杖ひとつで歩くのは、困難を極めることなんです。路上においてあるモノにぶつかる、突き出ている看板や電信柱に激突する、駅のプラットホームから落っこちる……。彼らは本当に障害だらけの中で生活していました。ほんの少しでもいい。もう少しまわりの環境を的確に把握する道具を提供することができないか。研究を進めれば、進めるほど、その思いは強くなっていきました。

 何かいいアイデアはないか、とずっと考えていて、思い浮かんだのが、コンピュータが読み取った画像を処理して輪郭だけを浮かび上がらせること。そして、電気信号を使って身体に刺激を与えて認知する、という方法でした。研究を始めてから2年ほどたっていたと思います。

 いずれは実用化したいと思って研究していましたから、まとめて特許を出願しました。まず無理だろうと思っていたら、2003年に取得できてしまったんですね。神の啓示だと思いました。やれ、と言っているんだと。当時58歳。世間的には定年の年齢に近づいていましたが、引退する気などまったくありませんでした。だったら、これをライフワークにしてやってみよう、と。
 とはいえ、上場会社の役員。簡単に辞めるわけにはいかない。若い後任を見つけ、約1年かけて仕事を引き継ぎました。そして2004年12月で会社を退いたんです。
東京大学・舘研究室との共同研究に
 ひとつの転機は、特許を取得する直前にあったと思っています。もともとアイデアはもっともっと煮詰める必要があると思っていました。というのも、当時の私の手法では電気刺激に痛みが残っていたから。そんなときに新聞で見つけたのが、東京大学大学院情報理工学の舘ワ教授の研究でした。「スマートタッチ」と呼ばれている、電極の上に指をのせると、触覚によって図形の変化が電極を通してとらえられる、というもの。新聞を読んで、これだ、と思いました。それで、すぐに舘先生の研究室に会いに行ったんです。

 舘先生は触覚やバーチャルリアリティの世界で世界的に有名な先生で、ロボットの権威。昔、盲導犬ロボットの開発に挑んだことがあったそうで、障害者のために貢献できるなら力になる、とおっしゃってくださって。実は特許が取れたのは、舘先生に初めて会ってから1カ月ほど後のことでした。だからこそ、ますます神様の思し召しだ、と思いました。

 その後、産学連携を支援している東京大学からアメリカのクリーブランドクリニックの先生を紹介してもらって会いに行くと、「額で認識するのか」「こんな細かなことが表現できるのか」と興味をもってもらえて。10月にメディカルイノベーションサミットがあるから、出品しては、と提案を受けました。でも、サミットまで5カ月ほどしかない。試作品づくりに、ここから何日、徹夜したか(笑)。

 試作の過程では、開発のきっかけとなった生徒が通っていた千葉県立盲学校にも協力をいただきました。今も覚えているのは、当時27歳の男子生徒が試作品をつけてくれたときのこと。30×2cmほどのマグネット棒を、縦に置いたり、横に置いたり。それが認識できる。初めての経験に彼も興奮してきました。そして、三角形のマグネットを張り付けたとき。彼が、こう叫んだんです。「三角形ですね。僕見えます!」と。考えてみれば、先天性視覚障害者が「見える」という言葉を使うこと自体、すごいことでした。今も忘れられない瞬間です。
最先端の科学技術は、目の見えない人に何をしてきたか
 メディカルイノベーションサミットでも、試作品を試してもらったりして、大変な反響を得ました。その後、当社の役員のつてで、ミネソタ州立盲学校でもテストさせてもらうことになりました。生徒に付けてもらうと、みんな大喜び。でも、一人だけ、43歳の先天盲の女性が最後まで装着を拒みましてね。信用できない、と。

最終的には装着したんですが、テストが終わると彼女がやってきて、もう一度、付けてみたいというんです。応じると、あちこち歩き回り始めました。いろんなものを触りながら、認識できるものを確かめているようでした。そして教室の出口で立ち止まると、ふっと彼女が手を上げたんです。そして、5本の指を額の前にさらした。大きな声で彼女が叫んだのは、次の瞬間でした。「I can see my fingers!」彼女は自分の指を、動く指を初めて見たんです。

その声を聞きつけて、生徒が次々に集まってきて。みんなが自分の手をかざし始めて。 私たちは生徒たちに「Can you see?」とは絶対に聞きません。「feel」や「distinguish」を使う。ところが、自分たちから「see」が出た。これには「やった!」でした。触ることでいろいろなものを認識してきた彼女たちにとって、動くものがわかるというのは、とんでもないことだったんです。だからメディアも、ミラクル、と言ってくれたんです。

 上場会社の役員までして、この年になって、どうして独立のリスクを選んだか。でも、研究の過程でわかっていったんです。視覚障害者の人たちが、いかに大変な思いをしているか、ということを。人間は情報取得の90%を目から得ています。それがなくなったときのことを想像してみてください。にもかかわらず、最先端の科学技術は何をしてきたか。IT技術は彼らにどう貢献できたか。音声読み上げソフトなど、研究は進んでいる。でも、それだけで本当にいいのか。エンジニアが技術を追い求めることは、とても大事なことです。でも、根本的なところで、技術が技術だけで終わってしまうと寂しい。どう役に立つか、という発想が必要なんです。その技術を使って何ができるか。どう世の中に、社会に貢献できるか、ということです。

 視覚障害者を救おうと、身体に何かを埋め込むような研究もあります。でも、身体機能そのものを改造されることには、障害者も抵抗があります。人間の身体機能というのは、本当にすごいんですね。目が見えなければ、聴覚が見える人の何倍も発達したりする。持って生まれた独自の機能を大事にしながら、彼らの能力にプラスの何かをあげたい。それを目指していきたいと考えています。
これがこんなふうに見える図1
 
■これがこんなふうに見える図1

上の光景は、下のようなイメージで額が感じ取る。目の代わりにおでこ、額の触覚を使ってモノを認識させるというのは、世界初の試みだ。ヒントになったのは、聴覚のないイギリス人のパーカショニストの記事。ステージでは靴を脱ぎ、素足で音を感じて演奏するという。「足の裏が鼓膜になるなら、人間の額が網膜になってもいいと思ったんです」。
これがこんなふうに見える図2
 
■これがこんなふうに見える図2

横断歩道もこんなふうに。ただしトレーニングが必要。「視覚障害者には点字を指で読むことができる人がいますが、指で点字をスラスラと読めるように、訓練することで額でモノの形や障害物の位置を認識できるんです」。目線を上げ下げする頭部の傾きで、奥行きを認識させることもできるようになるという。プラットホームからの転落事故も防げる可能性がある。
メディカルサミット
 
■メディカルサミット

2005年、試作品を持って参加したアメリカでのメディカルサミット会場にて。「ユニークなアイデアがあれば、発案者を主体にベンチャーカンパニーを病院が作らせてしまうのがアメリカ。先生方も、新しいものへの感度が高いんです」。世界で初めてのアイデアには、想像をはるかに上回る反響が寄せられた。
profile
菅野米藏
株式会社アイプラスプラス
代表取締役社長

1948年、福島県生まれ。72年、神奈川大学経済学部卒。アイワを経て、73年にシステムエンジニアとして日本IBM入社。78年、IBMベーブリンゲン研究所ICCF研究開発(ドイツ)。83年、IBMベーブリンゲン研究所Network担当Manager(ドイツ)。91年、日本IBM、ボーイング777設計システム開発室長。92年、本社副社長補佐。93年、製造営業部部長。95年、日本IBMを退職し、ソフトウェア会社メディアグリップを設立、代表取締役に就任。98年、盲人用生活補助装具の研究に着手する。2000年、イーシステム取締役副社長。01年、盲人用画像認識装具を特許出願。03年、盲人用画像認識装具、特許取得。05年、アイプラスプラスを設立、代表取締役社長。09年2月、「AuxDeco(オーデコ)」が製品化され、発売が始まる。
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宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ 宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ
「やりたい」と思ったことを次々と実現させている菅野さん。全盲者に視覚を与えた「オーデコ」の研究開発に着手するまでのキャリアは、とても意外なものでした。営業、SE、研究者と、まったく違った道をそれぞれ納得いく形で成し遂げているのはすごいと思います。一人でも多くの全盲者の方が、「I can see my finger!」と叫ぶ日が待ち遠しい!

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