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我ら“クレイジー☆エンジニア”主義! vol.41
なぜコードを書き続けるのか?ギーク増井雄一郎の原点
「Titanium Mobile」の伝道師、「MobiRuby」「Wri.pe」などの開発者として知られる、増井雄一郎氏。執筆、講演などで日本中を飛び回り、一方で自らコードを書き続ける著名なギークの一人。多方面で精力的に活躍する増井氏の原点を聞いた。
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/馬場美由紀 撮影/栗原克己)作成日:14.02.24
“クレイジー☆エンジニア”

株式会社トレタ CTO
ミイル株式会社 取締役CTO
増井 雄一郎氏

Ruby関連では、その名を世界に知られる、日本が誇るギークの一人だ。20代から、Ajax、Ruby on Railsなどの技術を使ったWebアプリケーションの構築や、雑誌・書籍への執筆などで長くフリーランスで活躍。「PukiWiki」などのソーシャルアプリケーションの企画・開発を得意としてきた。2008年から渡米。アメリカでiPhone、iPad関連のアプリケーション開発に従事し、その後、Appceleratorのテクニカルエバンジェリストとして活動。
さらに、ミイルの取締役CTOとして、スマートフォンアプリ、ウェブサービス「ミイル」の開発に注力してきた。一方、RubyでネイティブのiOS/Andoroidアプリを作成できるフレームワーク「MobiRuby」を発表。最近では、メモ帳アプリ「Wri.pe」をリリースするなど、今も日々コードを書き続けている。そんな増井氏だが、意外や意外、中学時代はとんでもない成績だったらしい。だが地元の工業高校に進学してコンピュータにのめり込んだ増井氏にさまざまな転機が訪れる。

入学式の日、校門でパトカーが待機していた

 好きなこと以外はほとんどやらない子供だったんですよね。おかげで、成績はひどいものでした。スポット的に好きな分野はちゃんと勉強したりするんですが、そうでないものは一切やらない。中学のときは偏差値が44とか、45とか(笑)。5段階評価の平均も3を切ってました(笑)。「息子さんには進学できる高校がないです」と面談で言われた親は衝撃を受けていたみたいです。妹が1人いるんですが、彼女は子供のころから勉強ができて、対照的でしたね。

 結局、生まれ故郷の札幌で、かなり偏差値が低く、勉強も嫌いだったので工業高校に入るんです。入学式の日、校門でパトカーが待機しているような学校でした(笑)。中学のときに科学部に入っていたんですが、部室にMSXが置いてあって、ちょっと触って面白いなぁと思っていて。高校も情報科を選んだんです。それからは家にMSXを買ってもらったので、自分の部屋に籠もる日々が始まりました。同じ情報科で、同級生とつるんで、コンピュータの話ばかりするようになって。

 夏休みになると、多店舗展開をする写真屋さんで、コンピュータ入力のアルバイトを始めたんですが、そこにあったのが、PC9801で。触っていると面白くて、自分で在庫管理ソフトや発送管理ソフトを作ってしまったら喜ばれまして。出入りしていた会計事務所の人から「ほかのお客さんにも」ということになって、高2からは、システムを作ることが仕事になりました。それ以前から、MSX・FANのような雑誌に投稿していたりしましたからコードは少し書けていて。いろいろ聞いて業務をシステムに落としていくのは、面白かったですね。

 それからはコンピュータにどんどんのめりこんでいくんです。朝までずっと向かってる、なんてことが普通になっていきました。

増井 雄一郎氏
授業がおかしい、と教授に噛みついたら……
増井 雄一郎氏

 通っていた工業高校の工業科から大学に行く人なんて、年1人いるかどうかでした。ところが、あるとき情報処理2種、今でいう基本情報処理技術者試験を合格していると面接のみで入れる、という大学があるという情報をもらったんです。いわゆる一芸入試です。偶然そういう主旨の記事を作った、という知人の情報だったんですが(笑)。それで学校に確認してもらったら本当にそうで。実はその後、学校からも工業大学の情報処理学科なら推薦で行けるという話をもらったんです。

 一芸入試で入ったのは、文系の札幌大学。コンピュータを学ぶなら理系の工業大学がいいと思いながらも、当時すでにパソコン通信などで理系の大学生ともコミュニケーションしたり、研究室にも遊びに行ったことがあって、雰囲気はだいたいわかっていたんです。ひとつ気になったのが、9割が男だということです(笑)。高校も工業高校でしたから、女の子はいない。大学もまたそんな生活になるのはどうかな、と思って。むしろコンピュータ以外のことをやるほうがいいんじゃないかな、と。それで札幌大学の経営学部に進学したんです。札幌大学には附属の女子短大もあったりしましたから。それで本当に、その学校に通っていた人と後に結婚することになるんですが。

 経営学部だったんですが、授業に情報処理概論というのがあって。これが聞いていると、時代にそぐわない話をしているわけです。僕は、これはおかしいと教授のところにかみつきに行きました。すると、面白い学生だと思ってもらえたみたいで。普段、教授が部屋を使わないときは教授室を使っていいと言われたんですよね。それが1994年。ちょうど、日本中の大学が専用線でインターネットにつながった年なんです。研究室ではコンピュータも使っていいことになったので、ここからまたコンピュータ漬けの大変な日々が始まってしまうんです。

オン・ザ・エッジの堀江貴文という人から連絡

 当時はほとんど学校に住んでいると言われていました(笑)。僕の寝袋は教授室にありましたし。それはもう面白くてしょうがなかった。アメリカのサイトで海外のニュースを見たり。札幌医科大学の研究室のプロジェクトで、札幌のラーメン情報がWebページで掲載されて驚いたり。Webカメラで24時間コーヒーポットを撮り続ける、なんてことが流行った時代。面白かったですね。世界中どこでもつながる世の中になったんだと思って。

 そのころから、Linuxなどのオープンソースも触り始めて。産学協同のプロジェクトで、サーバーを作る研究に携わったりもしました。自分でいろいろ調べて作り上げるんです。当時はサーバーを作る参考文献なんてない。試行錯誤しながらやりましたね。考えてみたら、プログラムを教えてもらった経験って、一度もないんです。全部、試行錯誤でやってきたんですよね。あとは自分でメーリングリストを立ち上げたり。

 97年にはセキュリティに興味を持ち始めて、ホームページ公開に当たって、いろんな取り組みを進めていきました。有名な理工大ですらドキュメントを公開していない時代。Firewallとか、プロキシ(Proxy)とか、仕組みとして面白いと思いました。それでインターネット上に公開をすると、いろんな質問がやってきたんです。

 その1人が、オン・ザ・エッジを立ち上げていた堀江貴文さんでした。「飛行機代を出すから一度、東京に来てくれ」と言われて。初めて尋ねたときのことを今も覚えています。その後も何度も会社に行って、アルバイトとして仕事をさせてもらいました。いろんな人と知り合いになれたりもしました。小飼弾さんも、当時知り合った一人なんです。

増井 雄一郎氏
2000年、大学在学中に会社を立ち上げる
増井 雄一郎氏

 大学3年のときには、ゲームを作ってみたいと思って探していたら、知り合いを通じてプログラマを募集している会社を紹介してもらって。そこにアルバイトで入ったら、なんと在籍していたプログラマが、経営陣と対立して全員辞めてしまって(笑)。いきなり1人になっちゃったんです。それで高校時代の友人たちなどに声をかけて、プログラマとして集めてゲームを作りました。ソフトを2本作ったかな。とにかく、とんでもない時間、仕事をしていて。当時は月に450時間働いていましたから。1カ月って、720時間じゃないですか。とんでもない時間で、さすがにブチ切れて辞めました。アルバイト料は、50万円くらいにはなったんですが。

 こんな状況ですから、案の定、大学は留年しまして5年で卒業した後も、研究科に1年、合計6年、学生をやっていました。大学4年から自分で学費も払うようになって。仕事は人づてにどんどんやってきていたんですが、個人で受けられる量に限界が来ていたんですね。それでいっそのこと、法人化してしまおう、ということで、高校生の時にアルバイトをしていた写真屋さんのアドバイスや出資もあって、3人の仲間と一緒に会社を作ったんです。2000年のことです。

 この会社は後にたたんでしまうんですが、地元の情報会社から転職してきたメンバーの1人がその後起業し今では札幌で100人近い規模の会社になっているそうです。

■大学時代の起業
起業願望があったわけでは全くなかった。高校時代から小さなシステム開発の仕事を受け始め、それがだんだん大きな規模に。大学時代には、個人では受けきれないほどのスケールになってしまったという。新しい技術は、ほとんど自分で試行錯誤しながら作り上げていったそうである。
■黒歴史
インタビュー中、何度も「ちょっと待ってくださいね。たしか、それは……」とパソコンに向き合うと、過去のさまざまなアーカイブスが画面上に。増井氏が手がけてきた歴史は、今もネット上に残っている。
■ブログ
情報公開を積極的に行ってきたのも、増井氏の大きな特徴。パソコン通信に始まり、メーリングリストや掲示板、カンファレンス、ハッカソンなどなど、そのスケールはどんどん大きくなっていった。今も、ブログなどで積極的に情報発信を行っている。
「@masuidrive.blog」

増井氏がWeb上で情報公開を始めたのは、まだオープンソースという言葉すらなかった時代。ドメインを取って、自分で開発したツールをどんどん公開していった。それに当時の最先端のエンジニアたちが反応してくる。増井氏は新しい自分の考えを、さらに送り出していく。やがて、そのアクションは国境を越えていくようになる。世界のエンジニアが注目するようになったのだ。アメリカ行きを決意するが、その方法がない。

だが、増井氏はとんでもない行動に出る。やりたいと思ったことは、なんとしてでもやり遂げようとするのがポリシーなのだ。そしてその姿勢は、見事に花開くことになる。アメリカでは厳しい状況を味わいながらも、やがて帰国。さまざまな出会いを活かしながら、今も活躍の場を広げている。目標は、日本でそうであるように、世界でも自由にやりたいことができる環境を作ることだ。

やりたかったのは、経営ではなくエンジニア

 どうして情報公開をしていたのかというと、基本、寂しがり屋だからです(笑)。いろんな人に喜んでもらえたらうれしいなあ、と思っていたんですよね。iPhoneの原形のようなものだったPDAにLinuxを搭載したり。Javaもリリース前の1.0が出たころから触っていましたし、グループウェアもサイボウズが出てくるかなり前に自分で原形のようなものを作ったりしていました。図書管理とか、スケジューラとかもそう。PHPなども、情報が入ってくるから、自分で使ってみたいと思うようになるんです。

 お金が欲しい、とかではなかったですよね。面白いからやってみたい、という気持ちでした。そのうち、いろんな場で講演もしてほしいと言われるようになって。商店街活性化のための取り組みを話してほしい、とか。最初は大学の教授と一緒に、ヒアリングをして、フィールドワークして、話をしたことを覚えていますね。

 会社にした後も、最盛期は6人くらいになって、忙しくなっていきました。クライアントも、大手広告代理店、携帯電話キャリアなどに広がっていって。ちょうどi-modeが出始めのころだったんですが、サイトの構築やデザインをできる会社がほとんどなかったんです。もちろん僕たちにもノウハウはありませんでしたが、手探りで開発して。そのうち、ものすごい仕事量になっていったんです。

 ただ社員は基本、エンジニアとデザイナーですから、外に出るのは僕しかいない。営業面や経理面などを全部やらないといけなくなって。社内でコードを書いたりする余裕なんて、なくなっていったんです。もともとエンジニアをやりたかったわけですよね。経営がやりたかったわけではない。それで自分の中で迷いが出始めて。親に相談したら、どっちかにしないと持たないよ、と言われて。それで、みんなで話し合って、会社を閉じることにしたんです。2003年のことです。

増井 雄一郎氏
アメリカで暮らしてみたい、という決意
増井 雄一郎氏

 20代で会社を経営している間は、ITバブルなどもあって、本当に忙しかったんですが、それでもよく遊んでいました。今から考えると、どうやって時間を作っていたのか、不思議でならないんですが(笑)。僕は車が大好きで、いじるのも好きで、サーキットに行ったり。あとはクラブにもしょっちゅう行っていて、パラパラも全部踊れましたし(笑)。なぜか150キロ離れた旭川のクラブのイベントによく行っていたんですよね。

 フリーになったのが、25歳。仕事はいろんな方向に広がっていきました。エバンジェリスト的な仕事があったり、テクニカルライティングがあったり、講演会、講習会……。そんな中で、Ruby on Railsに出会ったり、「日経Linux」への寄稿が始まって、たくさん特集を持たせてもらったり。一時は毎月30ページくらい書いていました。

 初めて海外に行ったのは、Ruby on Railsのカンファレンスでした。場所はシカゴ。このとき初めてパスポートを作ったんですよね。まともに勉強していませんから、英語がまるでできない。それこそイミグレーションからもう大変で。それでもなんとか一週間現地で過ごすことができ、このまま1年アメリカにいたら、少しは英語ができるようになるんじゃないか、と思うようになったんです。

 それで調べてみたら、アメリカの会社に入るより、日本の会社でアメリカに派遣してもらうのがいいのではないか、ということに気づきました。そうしたら、アメリカに支社を出したい、という会社とオープンソースのカンファレンスで出会って。東京の会社だったので、札幌を引き払って東京に出てきたんですよね。ところが、業績悪化で、どうにも雲行きが怪しくなった。

 そんな時にアメリカで起業している中島聡さんが日本で講演すると聞き、なんとか話をしてみたいと思いました。会社の代表メールに入れると、秘書からお断り。でも、僕の経歴を付けて転送だけしてほしいとお願いしたら、本人からメールが来て、会うことができたんです。

言いたいことを言ってきたことが縁を生んだ

 そこから一緒にアメリカで会社を作ることが、トントン拍子に決まって。自分でもびっくりでしたが、本当にシアトルに住むことになり。2008年のことです。折しもその年、iPhoneのアプリのSDKが公開され、7月にアプリストアがオープンしました。大急ぎで申請し、大急ぎで作った写真アプリは100万以上のユーザーにダウンロード。全く英語がしゃべれないのに、アメリカのデザイナーと打ち合わせしたりして大変でした(笑)。

 ただ、この年の秋にリーマンショックが起きて、アメリカでは広告ビジネスが成り立たなくなってしまって。結局、2010年に会社を閉じるんです。外部から投資を受ける方法もありましたが、アメリカのベンチャーキャピタルと対等に交渉して、ビジネスを作っていくことができるかな、と不安だったんですよね。

 帰国の潮時かと思いましたが、転機がまたやってくるんです。当時、英語圏ではRubyの技術で僕の名前は知られていまして、日本人のいないコミュニティに参加したりしていたんです。このとき、話題になっていたのが、iPhoneアプリを作成するツール「Titanium Mobile」。そのできが悪いことに、僕は腹が立っていまして。

 コミュニティだけじゃなくて、ユーザーの集まるハッカソンで直接、文句を言ったんです。そうしたら、社長のメアドを教えてくれたんですよね。それでやりとりしているうちに、そんなに言うなら、うちでやらないか、ということになって。それが、Appceleratorでした。

 当初はビザ取得費用がない、と言われていたりしたんですが、なんとベンチャーキャピタルから9億円の出資が直後に決まって。これが、会社を閉じて帰国するための引っ越しの日。その後、いろんなやりとりがあって結局、帰国して日本でプラットフォーム・エバンジェリストとして2年間、仕事をしたんですが、年6回自由に渡米できるなどの条件をもらっていましてね。これはありがたかった。

 振り返ってみると、やっぱり縁が大きいんですが、そのきっかけは言いたいことを言ってきたことだったりするんです。思い切って言ってみる。行動してみる。好奇心を持つ。積極的に人に会う。それが、自分の幅を広げてくれた。自分が知っている範囲は限られますよね。でも、僕のことを知っている人は、それ以外にもたくさんいる。スティーブ・ジョブズは「ドットを打つ」と言っていましたが、とにかくあちこちに点を打っておくことが大事なんです。それがやがて線につながる。線は点からできるんです。

増井 雄一郎氏
すべての判断基準は、面白いか面白くないか
増井 雄一郎氏

 忙しい日々でしたが、コードを書く時間は必ず作ってきました。それこそ、風呂でもコードを書きますから「フログラマー」なんて呼ばれていた時期もあります。純粋にコードを書くのは好きなんですよね。「MobiRuby」にしても、おととしから何千行もずっとコツコツと、好きで書いてきたんです。その時間を必ず作るようにしています。

 おかげさまで日本では知名度が上がって、ずいぶん自由に仕事ができるようになっています。これを、世界でもやりたい、というのが、今後の目標です。得意分野がニッチなるほど、それは可能になると思っています。あとは、目に見えるプロダクトがあることですね。2013年のゴールデンウィークに「Wri.pe」という個人のメモ帳を英語版で作ったんですが、世界中のブロガーに個別にメールしたり、Twitterで反応してくれたりした人に贈りました。やっぱり目に見えるものは大事。

 単に有名になりたいわけではないんです。有名になったほうがやりたい仕事がやりやすくなるんです。ただ、それだけです。今すべてを失っても、明日から仕事ができる。そんな状況にあることが、自分にとっての理想です。今の仕事で「来なくていいよ」と言われても、明日から来てほしい、という会社のストックを必ず持っています。

 大事にしているのは、面白いことをやること。すべての判断基準は、面白いか面白くないか。2月からシェアハウスに住んでいますが、これが260室と日本最大なんです。面白そうだと思って、決めてしまいました。やっぱり何でも楽しんでやらないと。深く、集中して。あとは、勉強することですよね。生き残れる人は勉強し続けられる人だと思います。

 自分が見たいと思った未来が、自分で作れる時代が来ています。iPhoneは本当に驚きでした。どこに行ってもネットがつながることは、かつて夢でしたから。エンジニアには、自分たちが欲しい未来を作るチャンスがある。その一番近くにいる。もっともっと夢を見て楽しまなきゃ、と思っています。

■勉強
プログラムを書くには結局、コンピュータサイエンスが必須になる、と大学に入ってから勉強を始めたという。高校の数学を学びたくて、予備校に通っていた。「基礎は重要です。3DCGを作るには、行列演算を理解していないといけないですから」。また基礎をやり直したいと思っているという。
■フリーの値付け
お金にはこだわらないというが、価格交渉はしっかりやる。単価はそれなりに高いという。「目標の売り上げ金額から逆算するんです。これくらいの日数がかかるなら、このくらいもらわないと目標の金額に達しないから、と」。見積もりにロジックがある、ということだ。ほとんどこれで、問題ないという。
■ガジェット
ガジェット好きは子供のころのレゴ好き以来だとか。最近は、Oculus Riftのヘッドマウントディスプレイにぞっこんらしい。「目の前に3D環境が現れる。初音ミクと添い寝するツールを作った開発者もいるそうです。これは世界を変えると思っています」。あとは、モーター付きのレゴ、マインドストーム。

profile
増井 雄一郎氏  株式会社トレタ CTO/ミイル株式会社 取締役CTO 1976年、北海道生まれ。札幌大学経営学部卒業。大学時代に起業。2003年にフリーランスとなり、Ajax、Ruby on Railsなどを使ったWebアプリ開発や執筆を行う。08年に渡米し、中島聡氏とともにアプリ開発会社を立ち上げる。10年に帰国し、Appceleratorの「Titanium Mobile」のテクニカルエバンジェリストとして活躍。現在はトレタCTO、ミイル取締役CTO。著書に「Ruby公式資格教科書 Ruby技術者認定試験 Silver/Gold対応」ほか。
ブログ:「@masuidrive.blog」

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