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我ら“クレイジー☆エンジニア”主義! vol.21 量子テレポーテーション実験を世界で初めて成功させた古澤明
1998年、38歳のとき、留学先のカリフォルニア工科大学で、世界初の量子テレポーテーション実験に成功、世界の度肝を抜いた科学者、古澤明氏。当時、勤務していた光学機器メーカー・ニコンを離れ、現在は東京大学で新たな成果を生み出している。
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/宮みゆき 撮影/栗原克己)作成日:07.04.11
クレイジー☆エンジニア
東京大学教授
古澤明氏
1998年、世界初の実験の成功はアメリカの科学誌『サイエンス』のその年の10大ニュースに選ばれた。また、論文は「ジュラシックパーク」で知られる作家、マイケル・クライトンの目に留まり、タイムトラベルを題材にした歴史冒険小説『タイムライン』で、参考文献として彼の名前とともに紹介されている。
超高速演算を可能にする量子コンピュータは今、世界中の研究者が基礎研究にしのぎを削っているが、その最も重要な基礎技術のひとつである量子テレポーテーションの研究で、世界の先頭を走っているのが、その実験「スクイージング技術を用いた遠隔地間での量子状態の情報伝達の実証」を成功させた人物、古澤氏なのだ。
2004年には、二者間だけでなく、三者間の量子テレポーテーション実験にも成功、量子情報ネットワークへの手がかりをつかんだ彼は、また世界の度肝を抜いた。最初から科学者の道を目指していたわけではない。大学院を経てニコンへ。そしてアメリカ留学が転機をもたらす。
人生の節目節目でマイナーな道を選んだ
 将来について何か考えていた、とかないんですよ。子供のころに描いた夢も特になかったし、職業観もなかった。実際には今もないんですけどね(笑)。楽しければ、それでいい。楽しくやろう。そうやって過ごしてきたんです。特別なことなんて、何もしていない。子供のころも、ごく普通の子供でした。すべてが普通です。でも、子供もだんだん個性をもち始めますから、すべてにおいて真ん中にあるのも個性になるんですね。可もなく不可もなく。よく言えば、オールラウンダー。これといって取りえもない。東大に入るくらいの学力があったというくらいで。

 ただ、あまのじゃくではありました。みんなが行くところは、行きたくない。例えば物理を学びたいと思ったとき、物理の本流は、東大なら理学部物理学科なんですよ。でも、あえて僕は工学部物理工学科に行きました。大学の専攻も、超電導や半導体ではなく、地味な分野だった光物性を選んだ。就職のときも、同じ学科の卒業生の多くが大手電機メーカーやコンピュータメーカーに行ったけど、僕は行かなかった。平均値的な人間というのは、平均値的なところに行くのが向いている、と思ったからです。会社にしても巨大企業には、有名大学の卒業生がこぞって集まる。要は偏在しているわけです。そういう環境は、自分にはどうかな、と。今、考えてみると、人生の節目節目で、僕はマイナーな道に行くのが自分の流儀だったんですね。そしてこれが、後の自分に大いにプラス効果を与えることになるんです。

 大学時代に夢中になっていたものといえば、スキーでした。5歳で始めて、大学から大回転などの競技をするようになった。もともと勝負は好きでした。その意味では、大学受験も試験というレースだと思っていました。僕は学問で競争したことはあまりありません。でも、受験は学問ではないですから。まったく、別の話です。特に目的があるわけでもない。与えられた問題を早く解く。答えのあるものを見つける。パズルを解いていく。言ってみれば、頭の体操をやっているだけ。決して真理の探究などではないですからね。
最先端がいちばん面白い。だから最先端にいることが大事
 競争が好き、という観点でいえば、僕の選択は、競争を楽しめる環境を選んできた、ということが言えるかもしれません。でも、自分が納得のいく競争です。みんなが行く巨大企業を避けたかったのは、僕の中に、あるイメージがあったから。多くのライバルがひしめく中で競争があり、それはいいんですが、事業でも仕事でも、やっていることがまったく違っても、同じような基準で査定が行われなければいけないわけでしょう。言ってみれば、野球と卓球を無理やり比べるようなもの。でも、野球より卓球のほうが偉いなんて誰にも決められないわけです。ところが、大きな組織ではそんな難しい優劣もつけないといけない。組織を維持するために、です。それは僕が楽しめる競争環境ではなかった。

 僕は、会社に入ってから真剣に仕事のプロを目指そうと思っていました。当時の大学は今からは考えられないほど研究予算もなくて、建物も設備もひどかった。いい研究、とりわけ最先端の研究をするには、それなりにお金が必要です。最先端にいることは大事です。いちばん面白いですからね。そのためには企業という選択肢がいちばんだったんです。だからこそ、企業選びは重要でした。当時、博士課程まで進むつもりはありませんでした。修士には進みましたが、正直に言えば、スキーをもっとやっていたかった、という理由も実は小さくなかったりしますが(笑)。

 就職先にニコンを選んだのは、きちんと理由がありました。規模がとんでもなく大きくないけれど、財閥系の安定性がある、つまり資金力がしっかりあって、さらに当時は東京23区内にクリーンルームのある研究所があった。研究を行うのに、このロケーションは魅力でした。でも、人生というのは簡単に歯車が狂ってしまうもので、僕のもくろみとはお構いなしに、研究所は移転、さらにアメリカ留学中には、戻る職場がなくなってしまうんですけどね。

 ニコンで担当したのは、光で情報を読み書きする次世代大容量光メモリの研究でした。86年当時、最先端だった光磁気ディスク部門で、たったひとりでこの研究を任されることになった。面白かったですよ。何よりも最先端の研究でしたから。壁に当たると新しい方法論を考えて。3年目には東大の先端科学技術研究センターに出してもらって、このテーマで博士号を取ることになりました。ただ、これが本当にやりたいことなのかな、という気持ちは実はもっていました。
じっとしていても、組織でチャンスは訪れない
 研究は成果を生んで、大容量メモリは書けるようになったんですが、次にどう高速に読み出せるか、という問題が出てきました。ここで、光を分解する研究が必要になった。そのためには光を量子化して考えなければいけないということです。僕のもともとの専門は物性。光や量子ではなかった。でも、会社はそんなことにはおかまいなしに、僕に量子の研究を続けていいと言ってくれた。こういうところが、巨大組織にはない柔軟性だったと思う。全体方針がガチガチに定められ、組織が縦割りになっていたりしたら、僕個人の希望なんて話にもならなかったはずです。本当にいい会社にいさせてもらっていたんです。大学からまた会社に戻って、2年ほどひとりで量子の研究をしていたんですが、素人だし、やはり限界がある。それで今度は、海外に出ることを会社が許してくれたわけです。

 もちろん、こうして自由にいろいろやらせてもらうための環境づくりは、自分なりにしっかりやろうと心がけていました。与えられた仕事はいいところまで成果として出す。論文も書いたし、特許も出した。会社の上層ともきちんとコミュニケーションを図る。いい意味で、社内で目立つ必要があるだろう、と。いくら規模がころ合いといっても、きちんと立ち回りをしないと組織でチャンスを得るのは難しいでしょう。でも、研究は楽しかったですから、特に無理をしたという記憶はない。楽しいことのためなら、そんなものは別に苦にならない。そして留学OKになると、副社長が自ら日本でいちばん有名な量子光学の研究者を紹介してくれた。彼の紹介状を持って、カリフォルニア工科大学にいる量子光学の大御所の先生のところを訪ねたんです。

 実はアメリカには、学生時代から憧れをもっていました。大学で授業を受けた藤原正彦先生の影響です。『国家の品格』で有名になられましたが、僕にとっては『若き数学者のアメリカ』の著者でした。実は初めての授業のとき、僕は黒板に大きく「若き数学者のアメリカ」とイタズラで書いたんです。すると先生は、何も言わずにそれを消して講義を始めた。今もよく覚えています。先生の本にあったのは、自由競争の楽しさ。学閥や年齢や、そういったしがらみなく戦えるのがアメリカだ、と。実績さえ上げれば認められる。逆に実績が出せなかったら相手にされない。シンプルな世界です。でも、競争環境としてはすごく魅力的に思えました。アメリカでいつか勝負してみたい、自分の力を試してみたい、と思っていたんです。
量子テレポーテーションの仕組み図
 
量子テレポーテーションとは、ひとつの光の粒が、もうひとつの光の粒にそっくりそのまま乗り移る不思議な遠隔作用をいう。同じ場所で同時にできた双子の光子は、その後の運命も共にする。片方の光子が変化すると、離れた場所にあるもうひとつの光子も同じように変化する。どんなに離れていても変化の情報は瞬時に伝わるため、伝達速度は光速を超えることになる。これは、アインシュタインが量子力学を否定するために持ち出したもので、「EPR(アインシュタイン・ポドロスキー・ローゼン)」「EPRパラドックス」と言われる。
EPR相関にある光子を作り、少し複雑な測定方法を用いると、片方の光子の量子状態が消えると同時に、もう一方に同じ量子状態を出現させる量子テレポーテーションが可能になる。光子を送信者と受信者に配っておけば、その2つの光子間の相互作用で量子テレポーテーションが可能になるのだ。1998年、古澤氏は、レーザー光を使って特殊な光子のペアを作り、離れた光子の間で光子の状態を瞬時に転送する実験に世界で初めて成功した。ちなみにSF映画などに出る人間のテレポーテーションは、理論的には極めて難しいそうである。
物理はカジュアル
 
物理には早くから関心をもっていた。「日本語で物理と書くと、なんだか重々しい学問のイメージがあるんですが、英語のPhysicsというのは、もっとカジュアルな言葉なんですね。例えば、バスケットボールのマイケル・ジョーダンが、素人のドリブルしているボールをさっとカットする。こんなとき英語は、“That is physics”と言うんです。物事が動く当たり前の道理を明らかにすることそのものが、Physicsであり物理。当たり前に起きることを、ちゃんと言葉で説明できたら面白いじゃないですか。だから物理というものに、興味をもったんです」
スポーツ
 
勝負好きは、スポーツ好きとも関連しているのかもしれない。5歳から始めたスキーは、SAJ1級という腕前。また、ボードセーリングも20年以上のキャリアをもつ。物事を説明するとき、スポーツにたとえて説明することも多い。「スポーツの勝負は、勝てばうれしいし、負ければ悔しいじゃないですか。だから、基礎トレーニングをしっかり積んで準備する。そして緊張感をもってチャレンジできる。楽しいですよ」。実は、科学こそ最高のスポーツである、という表現も。「言葉は悪いですけど、研究もある意味、ゲームだと思うんですよ。楽しみながらやる、遊びの一部。そういう意識も、成果を生むためにも必要なんじゃないかと思う」
留学したカリフォルニア工科大学には、世界中から優秀な研究者が集まっていた。世界の一流の科学者とは、どういう人たちなのか、古澤氏はすぐ間近で垣間見ることになる。どんなことがあっても、ネガティブにはとらえない。クヨクヨしない。失敗すら、楽しんでしまう姿勢。ある分野のカリスマ研究者に至っては、実験器具の調整をわざとメチャメチャにし、そこで得た多くの失敗データを喜んで分析し、正解への道筋を見つけようと奮闘していたという。行動を起こさなければ失敗はない。失敗こそが新しい発見をもたらし、成功の道しるべになりうる。そして誰もが、研究を、そして人生を楽しんでいた。
大御所教授は、週に4度、テニスを楽しんでいた。“何のために生きている? 仕事も大事だが、遊びも楽しまなきゃ”。それが徹底していた。これぞ求める研究環境、と思った。一方で、アメリカではっきりと気づいたこともあった。日本人は、世界と肩を並べて戦えるだけの力を十分にもっている、ということである。
 
日本人は優秀。世界最高の舞台を楽しもう
 初めてボスとなる教授に会いに行ったとき、プレゼンテーションがあって、インタビューがありました。企業からアメリカの大学に留学するときは、極端な話、企業からの研究費を持っていけば、ほぼ入れてくれるんです。ただ、専門の物性とは違うとはいえ、量子光学の研究で僕なりに2年間、必死で独学をしていた。2年間あれば相当なことはできますから。たしかに量子分野では実績はないけれど、かなりのリサーチをしていた。それなりの自信もあったんですね。だから、インタビューの最後に聞いてみたんです。いくら持ってくればいいのか、と。そうしたら教授が笑いながら言ったんです。「One beer!」と。要するにビール1本でいい、と。これはうれしかった。プレゼンやインタビューによって、自分が研究室で役に立てる人間だと理解してもらえたんだ、と。

 ただ、そうはいっても結果がなければ相手にされない世界。量子光学の分野では僕には実績はない。ならば、実力を見せていくしかないわけです。実際、僕は、ちょっとずつたたき上げていきました。例えば、研究室で難問があって、みんなが解けない。それを解いてあげる。世界中から優秀な研究者が来ているといっても、僕は負けるとは思っていませんでした。学生時代、優秀な人間にはたくさん会っていましたから。日本の優秀な学生というのは、世界でも優秀なんです。普通にしていれば負けるわけない、と。実際そうだった。僕は最後にはモンスターだと言われました。どうしてそんなことまでわかるのか、と。でも、日本人は優秀なんですよ。

 僕がアメリカに渡る前年、大リーグに野茂投手が渡り、アメリカを席巻していました。言ってみれば、僕もメジャーリーグに挑戦するようなものだったんです。今なら、レッドソックスの松坂投手と同じ意識です。負けない、やってやる、と思って行く。そして同時に、世界最高の舞台を楽しもう、と。

 量子テレポーテーションの研究は、実は最初からやっていたわけではありませんでした。アメリカではいろんなことをやりましたから。それについて、一つひとつ結果を出していったから、大きなチャンスにたどり着くことができた。それこそマイナーリーグから上がっていったんです。大事なことは、チャンスボールを確実に打つことでした。そうでないと、試合で結果は出せない。ボール球を振ってしまったり、せっかくいいボールが来たのに、気負って打ち損じてしまうと、やっぱりダメ。チャンスがくるのを待って、チャンスボールがきたら確実に決める。それが勝負の鉄則です。
面白いと思えば力は発揮できる。120%の力も出る
 僕はアメリカで、きたチャンスボールをほぼ確実に決めていきました。しかもフルスイングを常にして。誰でも考えつくような無難なことをやっていたら、独創的なものなんてできっこないですからね。ホームランを打たないと次の打席はないんです。そうやって、これまで誰もやったことがないフィールドを与えられることになったんです。でも、フルスイングですから、時には空振りもするかもしれない。そのプレッシャーに耐えながら、チャンスボールを待つ必要がある。

 僕がアメリカにいてよかったのは、フルスイングをどんどんしていい環境だったということです。ホームランは3試合にせいぜい1本しか打てないとみんなわかっています。でも、日本では、多くの場合そうじゃない。毎試合、小さくてもヒットを打つことが期待される。ホームランよりも、そのほうが評価されたりする。でも、世界で尊敬されるのは、やっぱり不遇を覚悟してでもホームランを狙う研究者なんです。そうじゃないと、世界のトップグループには入れない。たとえヒットを打ち続けても、世界ではあまり評価されない。

 どうして僕に、量子テレポーテーションの実験が成功できたか。もちろん基礎学力は大事。でも、あとは楽しめたからだと僕は思っているんです。フルスイングできる環境を。真剣勝負できる世界を。面白いと思えば力は発揮できる。120%の力も出る。面白いからやれるんです。だって、世界で誰も成功していないわけですから。ある意味、すべてが新鮮。面白いですよ。今も、面白いことしかやってないですけどね(笑)。周りから見ればハードワークだったかもしれないですけど、僕は楽しくてしょうがなかった。スポーツも楽しんで、研究も楽しんだ。「Play」している感じでした。

 そしてもうひとつは、根性でしょうね。ホームランを狙えるアメリカは、長期の視点で成果を見てくれるといっても、やっぱりみんな成果は早く出したいわけです。でも、量子テレポーテーションの実験なんて、地道な調整を集中してやらないといけない分野。1万分の1oの精度で器具を動かしたり、元に戻したり。そういうことを日がな一日中続けないといけない。何時間も中腰になって、複雑なセットアップをキープしないといけない。それができるのは根性なんです。理屈だけじゃ、実験は前には進めないんです。

 でも、このときに改めて僕は思いました。大学に進むとき、理学部ではなく、工学部を選んだのは本当に正解だったと。素粒子論に向かったら、実験装置に向かう今の僕はなかった。実際、運のよさを含め、人生の選択が今に至るまでピシピシとはまっているんです。まさに、最適なルートを歩むことができた。結果には、きちんと理由があるんです。ただ、それは後になってわかることなんですけどね。
ホームランを打てる人が、バントの構えをしていないか
 僕が留学している間は、日本が金融危機に襲われていたころ。日本経済はおかしくなり、企業は組織の見直しを進めることになりました。そしてニコンでも、僕の帰るはずだった基礎研究所は組織変更でなくなってしまった。ただ、だからといって、すぐには辞められません。僕には家族がいるし、生活もあった。それで帰国してからは、会社に戻ってアメリカでやっていたことの理論研究を進めていたんです。

 そんなとき、偶然にも東大工学部の教員募集があった。僕は東大を公募で受けたんです。そして運よくこの仕事に就くことができた。卒業して20年以上たっていましたが、久しぶりの大学は驚きでした。かつての大学とは、まったく別のものになっていたからです。それこそ企業よりも、大学のほうが研究予算をもつ時代になっていた。ボロボロだった建物には、最新設備が入っていました。しかも、この仕事に就けたおかげで、僕は最高のパワーを手にすることができました。東大の学生です。世界で最も優秀な集団。こんなにしっかり基礎学力をもつ、当たり外れのない集団は世界でも東大にかなうところはありません。あとはしっかりモチベーションを与えて、それなりにさい配を振るってあげれば、ものすごい戦力になる。

 会社を辞めて大学教員になることには、反対の声もありました。給料も下がる。しかも、大学に行ったからといって、優れた研究者として生き残れるかどうかは未知数。実は会社員に比べるとリスクは高かった。でも、そのときの自分にとって面白いことをいちばんやれる環境は、やっぱり大学だったんです。面白くて、真剣勝負ができる場所は。だったら、それを選ぶべきだ、と。

 実際、こんなに面白い仕事はないですからね。研究は苦しいですよ。結果なんて、めったに出ないし、一進一退。ちょっと進んだと思ったら、だだっとなだれが起きて、ふもとまで落ちてしまったり。でも、真剣勝負は楽しい。真剣勝負だから楽しい。メジャーリーグのプレーヤーだって、真剣勝負をしているから楽しいわけです。

 今、日本を見ていて思うのは、もったいない、という思いです。ホームランを狙える人が、狙おうとしていない。もちろんホームランは全員には狙えないし、狙う必要もない。でも、ホームランを打てる人が、最初からバントの構えをしてしまっていないか。頭のいい人は、先を読みすぎてしまいます。だから、できないことはやらず、できることからやろうとする。でも、それでは大きな成功はありません。内野安打狙いのバントの構えから、ホームランは絶対に打てないんです。もったいないですね。力があるのに。大きな成功を手にできる可能性があるのに。ホームランを打つ快感を、手に入れられる能力があるのに。

 何がクレイジーか、ですか? 僕にとっては、すべてがクレイジーですね。世界の誰も考えていないようなことを考え、やろうとしている。クレイジーです。それは自分でもそう思う。でも、何より大事なのは面白いかどうかですから。クレイジーな今を楽しんでさえいれば、未来はきっとくる。僕は常にそう思っているんです。
実験道具
 
実験室は6畳ほどの狭い部屋。その中に、実験台がある。7、8m四方の箱の中をレンズや鏡などが縦横無尽に走っている。「実験台は、言ってみれば光の回路です。巨大な器具で、ひとつの回路が構成されている。かつてコンピュータは、リレースイッチやパラメトロンなどを所狭しと並べるために体育館のようなスペースが必要でした。それがトランジスタやIC、LSIと進化を続けて、今のような小さなものになった。この巨大な回路は、量子コンピュータの物理的モデルともいうべきものなんです」。これが未来には、小型化されていくのだ。
実験器具アップ
 
“光の回路”である実験台は、1000分の1oから、1万分の1o単位で調整を行う必要がある超精密機器で構成されている。そんな精密な機器の調整を、暗闇の中、中腰で一日に何時間も行わねばならない。待っているのは、とにかく過酷な実験なのだ。超精密機器は自在に動かせるように、3つのつまみがスムーズに回るようになっている。1個20万円という部品もあり、ひとつの実験台を作るには、総額で億単位の金額が必要になるという。また、計測機器は回路から手づくりする。世界と戦うためには、細かな部分から気を配らなければならない。
難しいものほど面白い
 
1998年の2つの光子間の量子テレポーテーションだけではなく、2004年には、三者間の量子テレポーテーション実験にも成功した。「最大の要因は、東大の学生という優秀なスタッフがいてくれたからこそ。これがすべてだと思っています」。そもそも難しいことに挑むことこそ醍醐味がある、と古澤氏。「ハードなもののほうが、面白いじゃないですか。スキーだって、コブだらけの難度の高い斜面に挑戦するのが楽しいわけです。やっぱり大志を抱かないと。この程度でいいや、ということをやっていても、面白くないですよ」。今後は、さらなる多者間への量子テレポーテーションの計画を進めている。まさにこの分野で、世界トップをひた走っているのだ。
profile
古澤明
東京大学 工学系研究科 
物理工学専攻 教授
工学博士

1961年、埼玉県生まれ。東京大学工学部物理工学科卒。同大学大学院修士課程修了後、ニコン入社。88年から90年まで、ニコンに在籍しながら、東京大学先端科学技術センター研究員を務め、光で情報を読み書きする大容量メモリの研究に従事する。91年、工学博士。96年から98年まで、カリフォルニア工科大学客員研究員。帰国の年、量子テレポーテーションの実験に世界で初めて成功。同年、この成果をアメリカの科学誌『サイエンス』に発表、欧米の各国で大きく報じられ、同誌はこの年の重大成果のひとつに選ぶ。帰国後、再びニコンに復帰した後、2000年から、東京大学大学院工学系研究科助教授。2004年には、三者間の量子テレポーテーション実験に成功。2006年には、『Nature』で東大の古澤研究室が紹介されている。平成18年度、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞受賞。2007年から東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻教授。
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宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ 宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ
ホームランを狙える人がバントの構えをしている。短期で成果を求められるこの時代、この言葉にドキっとした方も多いのではないでしょうか。実力に合った成果を出せないだけでなく、結果が想像できる仕事だけしていては、挑戦し続けるというチャレンジ精神や、人生の楽しみも半減しそうです。失敗なんていくらやっても無駄じゃない。だからホームランだけを狙えという古澤先生の言葉がとても胸に刺さった取材でした。守りに入っちゃだめですよね。

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