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我ら“クレイジー☆エンジニア”主義 vol.20 レスキューロボットの世界大会で連覇! 異色のロボット開発者・小蜑h次
ロボットコンテスト世界大会のレスキューロボット部門で2度も世界大会を制したロボット技術者、小蜑h次氏。高校教員をしながら34歳で大学院に進み、47歳で博士課程に、そして51歳で博士号を取得、大学教授に転身した異色のロボット研究者だ。
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/宮みゆき 撮影/栗原克己)作成日:07.03.14
クレイジー☆エンジニア
千葉工業大学
未来ロボット技術研究センター 副所長
小蜑h次氏
 昨年夏に放映されたNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』をご記憶の方も多いかもしれない。ロボットコンテスト世界大会、レスキュー部門を2年連続で制したロボットは世界を驚かせた。キャタピラの付いた前後4本の腕が、さまざまな地形を走破していく。後ろの腕を使って立ち上がり、40センチもの段差も乗り越える。車高を上げ、深さ25センチの水たまりも進む。腕に付いた爪で、傾斜45度の坂も登っていく。
ロボットには遠隔操作のカメラやセンサーが搭載され、離れた場所にサーモグラフィの映像を映し出すことができるシステム。レーザー・センサーは、周辺の状況を把握し、データをコンピュータで分析することで、要救助者のいる現場までの経路を自動で地図として書き出す……。このレスキューロボットの開発を押し進めたのが小蜴≠セ。元高校教師。筑波大学で、51歳にして博士号を取得、大学教授に転じた異色の経歴の持ち主である。
必要に迫られて、運命が変わるということがある
 教職の道に進みたいと考えたのは、高校生のときでした。僕は子どもの頃、小児ぜんそくを患っていて、体が弱かったんですね。それで人の世話にずいぶんなって。だから、人の役に立てる仕事がしたいとずっと思っていました。最初に配属されたのは、定時制の高校。それから工業高校に移って。面白かったですよ。子どもたちが成長していく姿が目の前で見られるわけですからね。

 大学で機械を学んだのは、自然な流れでした。幼い頃からとにかく動くものが大好きで、何でも分解してましたから(笑)。昔はドライバー1本でなんでも分解できましたからね。仕組みを知って、また元に戻す。高校の頃、ハマっていたのはバイク。それこそネジ1本までバラバラにしました。チューニングして、バリバリ音を鳴らしてたこともあった。

 だから、技術教育はとりわけ面白かったわけです。ただ、かといってすべての情熱を教育に注いだのかというと、そんなことはない。特に20代は仕事人間、働きバチにはなりたくなくて。仕事もきちんとするけれど、週末の趣味もちゃんとやる。そうしないと人生は絶対に豊かにならないと思ってた。車、船、スキー、釣り……。何でもやりましたね。ゴルフはシングルプレーヤーでしたから。

 ただ、技術の進歩とともに、技術系は教える内容がどんどん変わっていったんです。機械からメカトロニクスへ、そしてコンピュータへ。しかも30歳近くなると、自分は一人前の教員になっているのか、と自問自答するようになった。好きな科目や与えられた科目だけを、淡々とこなしているだけじゃないのか。高校のカリキュラムを全部、作れるほどの能力があるのか。気づいたのは、努力不足だという強い思いでした。これは勉強し直さないといけないな、と。

 それからしばらくして、文部省の“内地留学”の制度を知ったんですね。挑戦してみることにした。当時34歳でした。結局、時代に押されてやらざるを得なかったということかもしれない。何でもそうですが、必要に迫られて運命が代わるということもあるんです。
運とツキが、いろいろな偶然を運んできてくれた
 官の制度にはよくあることですが、制度はあってもすぐに使えるとは限らないんですね。このときも、公示から応募まで1週間ほどしかなかった。これでは学校を見つけて、書類を作って、許可をもらって、なんてことは非常に難しい。だからみんな母校に向かうわけですが、僕はそれはイヤだった。なれ合いになる。本当の文化を見るには、違うところに行かないと。でも、そんなことを考えているうちに、応募の締め切りが来てしまった(笑)。しょうがないから、僕は考えたんですよ。じゃあ来年、申し込もうって。それで1年がかりで準備したんです。

 僕はとにかく運とツキの人でしてね。このときも幸運があった。普通は40代、50代の人が務める教務主任を、なぜか30代前半で命じられていて。それで話をするきっかけを得たのが、養護教諭だった新人の先生でした。要は一番、大学に近い人です。それで聞いてみたら、筑波大学の出身者だった。筑波はいいですよ、と。しかも、自分のサークルの先輩にドクターで勉強している人がいるから紹介しますと。こういう紹介があると、話は早いんですね。

 僕は情報系の勉強がしたかったんですが、紹介されたドクターの学生に会って、担当の先生に合わせてもらって相談すると、それなら情報系も機械も両方関わるところがいいだろう、と言われました。それで紹介されたのが、ロボットの研究室だったんです。

 夕方、研究室で教授に会って話をしましたが、その日にすぐに「お願いします」というのもなんなので、「後日、改めて決めてきます」とその場は一時間ほどで失礼しました。それでドクターの学生とメシでも食っていくか、と食事をしていたんですが、もうほとんど心は決まっていたんですよね。それで、次はいつ来ればいいかと聞くと、学生は言いましてね。「それなら、今から行きましょう」と。

 でも、もう夜の10時を過ぎているわけです。ところが、「あの研究室は不夜城ですから」と。実際、研究室の灯りは煌々とついていた。それで、僕は情報とメカトロの両方を学ぶために、日本で最先端のロボット工学を学ぶことになったわけです。そしてこれをきっかけに、僕の人生は大きく転回することになりました。数年後には、夜中まで煌々とついた灯りのもとで研究ですからね(笑)。
学校が終わると大学院へ。朝5時の始発で通勤する毎日
 内地留学は1年間。勉強がこんなに面白いものとは思いませんでした。目的は明確。高校の授業に生かすこと。だから、学ぶこと学ぶこと、全部が役立つことがわかる。これは学生に教えるときにもいつも気をつけるんですが、学びの最大のモチベーションは成長を自分できちんと体感できるようにしてあげることなんです

 そして当時は研究室にも長くいましたから、横でやっていることも目に入るわけですね。ロボットを作って実験したりしている。ところが、根っからのメカ屋から見ると、びっくりするようなことをやっているわけです。「なんで、こんなところにセンサー付けるの」とか。それで、ちょこちょこっと直してあげると、学生から感嘆の声が上がる。無理もありませんでした。彼らは実地の機械なんて学んでないわけです。今、思えばよくわかります。当時のロボット開発は、コンピュータサイエンスの人たちが中心だったんです。ロボットを賢く動かそうと。そしてメカ屋は一歩引いてた。ただ、プログラムだけで機械は思うように動くわけではないんです。

 そのときに改めて思い始めるようになっていました。制御しやすいメカニズムというものがやっぱりあるんだと。それをコンピュータサイエンスの人たちは知らないんだと。メカ屋として、ロボット開発に新しい視点が与えられるということです。これが明確な形で頭に浮かぶのは、もっともっと後のことですけどね。

 いろいろアドバイスしていたこともあって、内地留学後も研究室とのつながりは続きました。それこそ研究室の学生がロボットを作りたいというと、工業高校に来させたこともあった。大学にはないメカの設備が、工業高校にはありますから。僕の家に泊まらせてね。もともと革新的な技術への憧れはありましたから、最先端の情報技術を持った学生たちの挑戦を後押しするのは楽しかったですから。

 そして留学を終えて5年ほどした頃、スタートしたのが社会人大学院でした。これなら仕事をしながら通えると思って興味を持ったんですが、思わぬところから反発の声が上がって。教育委員会です。教員が大学に行っていいのは、教員資格を取りに行くときだけだ、と。ここでまた、僕の運とツキが出てくるわけです。当時の学校の校長が、筑波大学の前身教育大のOBだったんです。教員が自分の資質を高めるために大学院に行きたいと言っているのに何事だ、と。結局、僕の大学院行きは許可されることになった。ただし、ひとつだけ条件があって、通学は公共交通機関を使いなさい、と。実は僕は電車の切符の買い方を知らないほどの車好き人間で(笑)。これは衝撃の申し出だったんですが、仕方がない。

 昼の3時に高校の授業が終わると、電車で移動。東京駅からはバスでつくばへ。大学での講義を終えて午前1時頃まで研究室にいて、つくばに借りたアパートから早朝5時10分発の始発に乗って学校に通勤。この生活を2年間送りました。寝食を忘れて勉強に没頭して、というとウソになりますが、それに近いものはありましたね。
高校教諭時代
 
仕事人間にはなりたくなかった、と考えていた20代だったが、定時制高校の教員時代には、毎日夜9時から0時頃までバトミントン部の顧問をしていたという。「でも、昼間はたっぷり釣りをしていましたけどね(笑)」。工業高校に移ってからは、技術革新を授業に落とし込んでいくのが、大変だったそうである。それも、真剣に技術教育に取り組んでいたからこそ、だろう。にこやかで、明るく、紳士的な態度の人物。さぞや人気の先生だったと思われるが、本人は「雑談の大家だったとは思いますよ(笑)」。やる気のない子をやる気にさせるのも大事だが、やる気のある子を伸ばしてやることを強く意識していたそうだ。
高校教諭時代
 
2004年に続き、2005年のロボットコンテスト世界大会を当時、助教授だった桐蔭横浜大学のチームとして制したのが、レスキューロボット「通称:03(ゼロサン)」。本格的な開発を始めて3台目。さまざまな技術が織り込まれ、世界の関係者を驚かせた。特徴的なデザインは、レスキューモデルの世界的な原形にあった。「そのモデルを自分なりに改良したんですが、細いアームは実は瓦礫にはさまりやすいんですよね。また、おなかがつかえて動きづらくなることもあった。これが、2006年の新しいモデルの改良点になっていったんです」
高校教諭時代
 
桐蔭横浜大学から千葉工業大学に転じ、2006年6月、未来ロボット研究技術センター(fuRo)から発表されたのが、新型レスキューロボット「Hibiscus」。ロボットのサイズは370(幅)×650(長さ)×180(高さ)ミリ。本体に6つのモーターを搭載し、キャタピラ状の“クローラー”を駆動して移動する。前後左右には“フリップアーム”と呼ばれる可動型のクローラーがあり、これを腕のように使って障害物をよじ登る。重量は、リチウムポリマーバッテリーを含めて22.5s。3700mAhのバッテリーで1時間程度の探査が行える。「03」に比べ、アームが太くなっている。またおなかの部分にも、キャタピラがついている。走行スピードも2倍になった。
 修士を終え、高校に戻った小蜴≠セったが、また運とツキに出会うことになる。実はもっとロボット開発をしたかったが、彼は自分の仕事をあくまで高校教員と認識していた。そこに登場したのが、ロボットコンテストだった。やがて大きなブームになるロボットコンテストだが、大学院で学んだ知識と、メカ屋としての技術がかみ合い、工業高校の生徒たちと作ったロボットはコンテストで連戦連勝を重ねていく。
 実はこの頃から、“小柳先生”はすでに知る人ぞ知る人物となっていたのだ。とりわけ有名な話がある。ロボコンで成果を挙げた出場者は、その多くがなかなか自分の技術を明かさなかった。明かせば翌年、マネされてしまうからだ。ところが小柳氏は、技術を惜しげもなくすぐに明かしたというのである。「すると、次にまた新しいことをやらないといけないでしょ(笑)。もっといいものを作るしかない。でも、そのほうが楽しいじゃない。マネされたとしても、レプリカはレプリカまででしかないからね」
 
人生は迷い、揺らぐから楽しい。選択肢がないのは寂しい
 ロボコンのおかげでハッピーな生活を送っていたんですが、一方でだんだんさみしさも出始めましてね。マスターを終えた頃、学会誌の論文が理解できていたんです。ところがブランクが長くなると、何が書いてあるのか、わかりにくくなってきて。でも、ここでまた、運のツキがやってきましてね。筑波大学の博士課程に、欠員が出たんです。これはめったにないことだという。また必死で勉強して試験を受けました。それから博士課程での日々が始まりました。それまでは、忙しいながらも、スポーツにレジャーにとけっこう遊んでいましたが、博士課程以降はなくなりましたね。時間がもったいないと思うようになったから。まさに研究に没頭していました。そして仕事を続けながら、4年で博士課程を終えることができたんです。

 51歳で高校教師の仕事を辞め、転身する決意をしたのは、いくつか理由があります。ひとつは、ドクターを取った高校の教員というのも使いにくいだろうなぁということ(笑)。もうひとつは、60歳定年というのがもう間近だったことです。大学で学ぶのに、年間400万円以上かかっていました。学費、交通費、教材費、書籍代などさまざまかかるわけです。それだけのお金を投資してきたのに、すぐに職業人生が終わってしまったら妻に申し訳なくて(笑)。

 運とツキに恵まれた僕ですが、チャンスは誰もに平等にあったと思っています。チャンス恵まれなかった人は、それを負担だと感じた人だと僕は思うんです。僕はそれを面白そうだと感じた。それがわかれ目になった。もちろん、運とツキがいい思いばかりをもたらすわけではありません。同僚の先生は夕方5時には家に帰れるわけです。でも、僕は大学やらロボコンの準備やらで、毎日夜中。でも、あるときから思うようになったんです。これは遊びだと。大学もロボコンも。仕事だと思うから5時に帰りたくなるわけです。

 でもね、こういう葛藤を自分のなかに持つことそのものが、僕は幸せなことなんじゃないかとも思うんです。迷うことは、実は最も面白いことなんですよ。恋愛なんて、その最たるもの。迷い、揺らぎ、悩む。でも、こういう揺らぎが、人生に深みを生む。逆に一番、人が寂しいのは、選択肢がないことです。迷えないのは寂しいです。

 僕が子どもに勉強しろ、と言い続けたのは、そうすることで選択肢が広げられるから。自分で決められるから。挑戦することも同じ。1階からも景色はよく見えます。でも、世の中には、2階も3階も4階もあるわけです。それを知って1階を好きだというのと、1階しか知らなくて1階を好きというのと、どっちが本当の好きか。2階を知ることは2階の良さがよくわかるだけじゃない。1階の良さもよくわかるんです。挑戦をしなければ、それは見えてこない。
優勝の理由は、完成形を持たなかったこと
 研究テーマをレスキューロボットにしたのは、実は不純な動機からでして(笑)。最初に桐蔭横浜大学に赴任したとき、学生に元気がなかったんです。それで何か目標を持ってもらおうと、ロボカップのサッカーリーグで世界大会に挑んだんですが、まったくダメで。ちょっと難しいかなぁと思っていたとき、同じ会場で友人が参加していたのがレスキューロボットのリーグだったんです。見てみると、崩れたブロックの上で動けなくなるロボットが多かった。僕のドクターの研究テーマは、不整地走行移動。その知識を生かせばこれなら勝てると思って(笑)。学生の動機付けのためには、勝つことはものすごく大事なことでしたからね。

 それで戻ってすぐにレスキューロボットを作り始めて、日本の大会に出たんですが、ロボットはできたけど、僕自身がルールをよく理解していなくて。大惨敗でした。レスキューどころか、あちこち踏みつけ、壁を壊しとさんざん(笑)。でも、このときにヒントをたくさん得たんですね。そのひとつが、小型化することだった。それで2カ月に満たない期間で新しいロボットを作って、世界大会に出たんです。これで初出場、初優勝しちゃった。

 優勝の理由があるとすれば、完成形を持たなかったことだと思います。僕は、ロボットを常にベストな状態に持っていくことを考えた。コンテストでは、予選から何度も走るわけですが、僕らは出場者に驚かれましてね。なぜなら、毎回のように何かが変わっていたから。あれ、さっきあんなの付いてたっけ? という具合で(笑)。会場のポルトガルに着いて、僕が真っ先に探したのはホームセンターでした。そこで部品を仕入れておいた。それから予選で負けたチームには、「その部品、使えそうだからくれない?」とお願いしたりして(笑)。それで毎回、違うロボットになっていったわけです。

 でも、後から考えてみると、これは実用化の意味で実に正しい発想でした。レスキューの現場というのは、同じ環境はひとつとしてないわけです。日本家屋、鉄筋、地下、火事場、水びたし……。それに対して、臨機応変に対応できないと。専用マシンでありながら、応用が効く。そういうロボットづくりが重要なんです。

 この優勝の年の秋、起きたのが新潟県中越地震でした。日本では、国の予算を使ってレスキューロボットを開発しているチームがあります。彼らは現場に急行しました。でも、このプロジェクトは、大都市の大災害を想定したもので、山村での対応などはできなかった。緊急事態のなかで、役に立つかどうかわからないものを現地にヘリで運ぶこともためらわれた。

 そんなときに言われたわけですよ。そういえば、世界大会で勝ったレスキューロボットがあったな、と。カメラも付いているし、アームで1sくらいの荷物は持てるし、何かの役に立てるかもしれないと僕も思いました。たまたま長岡の大学に友人がいて連絡してみると、雪解け水を通す下水管の調査ができないかと聞かれて。今から考えると、見栄の塊でした。できるよ、と伝えたんです。
最先端の技術なんていらない。結果が最先端であればいい
 驚いたことがいくつもありました。灰色の薄暗がりのなかではカメラの自動フォーカスなんて効かないとみんなは言ったけれど嘘っぱちでした。日本のカメラ技術は大したものです。ちゃんと写ったんです。みんなは言っていたけど、実は違った、ということはたくさんありました。

 一方、事前にいろんな情報を集めて土管についても勉強していきましたが、やっぱり現場は厳しかった。普通に想像すると、土管が横になっていて、その底を走ればいいと思う。でも、底には泥が溜まるんです。だから所どころ泥溜めが作って凹んでいる。これではまっすぐ走れない。しかも、あちこち水没していた。それでも走れるところは走って映像を撮り、寸法のついたヒモをロボットに結んでモニターからの距離も得て、ノートに書き進めました。モニターとノートに書いたメモを照らし合わせれば、その場の状況がわかる仕組みを準備していたからです。これで役に立てるだろうと。

 でもね、こんなものは開発者の単なるおごりに過ぎなかったと思い知らされました。調査が終わった現場では言われましたよ、「ご苦労様でした」と。でも、担当者の表情を見て気づいたんです。まったく役に立てなかったことを。現場は一分一秒を争う戦場なんです。そんな場所で、モニターとノートを照らし合わせて、なんて悠長なことはしていられない。考えれば当たり前のことです。でも、開発者の僕は、そんな大事なことに気づくことができなかった。しかも、できる技術はあったのに、です。ショックでした。世界大会で優勝したプライドなんて、ガラガラとあっという間に崩れました。むしろ、これでレスキューロボットなどと言っている自分が恥ずかしくなった。

 大学に戻るとすぐに新しいロボットづくりに取りかかりました。レスキュー隊員の人たちが本当に現場で使えるシステムを作ろう。水中を潜れる防水にしよう。勾配を図るセンサーを付けよう……。現場でガツンとやられたおかげでした。アイディアが溢れるように出た。しかも、別の発想も浮かんだ。機能を考えれば、専門ロボットだけれど、災害だけで使わなくてもいいわけです。池の底をさらうことだってできるし、住宅の床下の点検にも使っていい。開発のイメージがどんどん膨らんでいったんです。そしてはっきりとわかってきた。すべてのキーワードは、人の役に立つことだ、と。

 独創技術やら先端技術やら、そんなものはいらない。レスキューロボットが高価な専用部品でできていたら、どうなりますか。現場で故障したら、代替部品がないわけです。ならば、どこのホームセンターでも売っている部品で作る必要がある。要素がすべて最先端でなくったっていいんです。結果が最先端であればいい。誰もやれなかったことができていればいい。僕はそれを求める。

 始めた動機は不純でしたが、びっくりするくらい奥の深い分野でした。でも、始めたからには極めないと気分が悪いじゃないですか(笑)。だから、いろんなロボット開発をしても、軸足はレスキューロボットに置きたい。男が一度言った以上はやらないとね。

 自分らしい生き方を貫くこと。僕はそれが、いい仕事をするヒントだと思っています。自分らしい生き方に沿ったことができたとき、きっといい仕事は生まれる。仕事の中に人生があるんじゃない。人生の中に、仕事はあるんですから。
高校教諭時代
 
高校教員時代、ロボットコンテストに参加し始めたのは、1993年から。いきなり「工業部会長賞」を受賞すると、翌年には全国高等学校ロボット競技大会で優勝。さらに95年には、全日本ロボット相撲全国決勝大会で優勝。97年には、機械学科主催ロボットグランプリ、ロボコン競技で総合優勝、全日本ロボット相撲高校生全国大会で優勝などなど、戦歴がずらりと並ぶ。
また、全国産業教育フェアで、「段差を超えることのできる電動車イス」を発表するなど、教え子とたくさんのロボットを開発、その道では知らぬ人はいないほどだった。現在では、ロボットコンテストの実行委員や審査委員も務めている。
高校教諭時代
 
倒壊した家屋やビルに入り、赤外線感知センサーやサーモグラフィを使って被害者を探索するなど、fuRoで開発中のレスキューロボットは、実用化を前提に開発が進められている。実際に、レスキュー隊員との合同で、ロボット活用の訓練も行われた。ロボットには、遠隔操作のカメラが取り付けられている。瓦礫などを乗り越えて人を発見、動きがあるかどうかをチェック。
また、取り付けられた熱センサーが体温を測定、モニター画面上にデータが示される。サーモグラフィの映像を頼りに人の生死も確かめられる。ロボットのコントロールは、市販されているゲームコントローラ。これならどこでも手に入るという理由から。ちなみに、新潟中越地震で使われたのは、「03」だった。
高校教諭時代
 
千葉工業大学では、最先端のロボット研究・開発に携わると同時に、モノづくりを通じ、さまざまな技術や創造性の修得を狙いに、「未来ロボティクス学科」がスタート。未来ロボット技術研究センターとの連携教育も行われている。
「僕が何よりうれしいのは、学生が僕には思いもよらないようなことをやってくれたとき。僕が気づかないようなことに、気づいてくれたとき。実際、そういう学生がいてくれるおかげで、僕のアイディアもブラッシュアップされていくことになる。僕自身も、ものすごくいい環境にいますね」
profile
小蛛@英次
千葉工業大学
未来ロボット技術研究センター
副所長 工学博士

1951年、神奈川県生まれ。神奈川県立横須賀工業高等学校機械科卒。関東学院大学工学部機械工学科を卒業後、教員に。磯子工業高等学校定時制機械科、大船工業技術高等学校機械科、横須賀工業高等学校機械科教諭を務める。ロボットコンテスト高校生全国大会などで優勝を重ね、その名が知られるようになる。高校に勤務する傍ら、92年、筑波大学大学院修士課程理工学研究科理工学専攻修了。2002年、同大学大学院博士課程工学研究科知能機能工学科修了。同年、桐蔭横浜大学工学部知能機械工学科助教授。2005年、同大学工学部ロボット工学科教授。2006年4月より千葉工業大学へ。日本ロボット学会会員。日本機械学会会員。日本ロボット学会評議員。S12004学会オーガナイズセッションプログラム委員。
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宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ 宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ
長年、工業高校の先生をつとめていた小蜍ウ授にとって、アイディアの源もいい仕事をしたなと思う満足感もすべて学生の成長にあるのだそう。学生に与えた課題をときに馬鹿なことをしたり、思いもよらない発想で驚かせてきたり。うれしいそうに話す小蜍ウ授の顔を見たとき、最先端のロボット技術であると同時に、素敵な教育者だとじんときました。こうやって、次世代のクレイジーエンジニアが生まれていくのだと。

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