プロ論。

なぜ、あの人はいい仕事ができるのか。 第一線で活躍する人物の「こだわりの仕事術」を紹介します。

好きなことを好きでいるためには、しんどいことって必要なんです

武田美保さん(シンクロスイマー、アテネオリンピック銀メダリスト)
たけだ・みほ●1976年、京都府生まれ。5歳からスイミングスクールで水泳を始め、7歳でシンクロの道へ進む。13歳で元シンクロ日本代表コーチの井村雅代氏が主宰する井村シンクロクラブに移籍。91年、ジュニア世界選手権チーム1位。その後、3つのオリンピックに出場し、計5つのメダルを獲得した。01年の世界水泳ではデュエット1位になった。04年の引退後は、シンクロを用いたショーの出演をはじめ、キャスター、タレント、ピラティスインストラクター、講演会講師など幅広い分野で活躍中。
2008年8月4日

アトランタ、シドニー、アテネの
3つのオリンピックで活躍、
デュエットとチームで5つのメダルを獲得した。
オリンピック出場を目標にしたのは
小学校時代だという。

泳ぎがうまいわけでも、速いわけでもなかった

スイミングスクールに入ったのは5歳のころ。でも、これはたまたま。実家の目と鼻の先にプールがあったからなんです。

転機は2年目に訪れました。シンクロをやってみないか、とシンクロコースの担当者の方から声をかけていただいて。見学をして驚きました。水の中であんな動きができるなんて、と。すぐにやってみたいと思いました。

実は泳ぎがうまいわけでも速いわけでもなかったんです。それ以外でも、どちらかというとトロくてダメな子だと自分では思っていました。

ところがシンクロを始めた初日に、たくさん褒めてもらえたんです。これで自分に自信が持てるようになって。本来おめでたい性格ですから、私はシンクロをやるために生まれてきた人間だ、と思い込んでしまった(笑)。それからは、とにかく1番になろうと思いましたね。オリンピックという目標も、小学生ですでにあったんです。

ただ、がむしゃらに練習ばかりしていたのかというと、そうでもないんです。むしろ、オリンピックに出るという目標のために、やるべきことを確実にこなす。そんな計画的な進め方をしていました。

ここで大きな意味を持っていたのが、両親とのコミュニケーションです。子どもに考えさせることが教育方針だった両親は、私にあれこれ指示はしませんでした。でもまるっきり放任というわけではなく、その日にあったことを全部聞きたいと言っていました。それで一日の練習で起きた出来事やそのときの自分の気持ちをすべて話し、次の日の目標を約束するのが日課となりました。

実は、このことがすごく役に立ったんですね。自分で客観的にその日の出来事を振り返ることができた。コーチに何を指摘されたか、何が足りなかったのか、何をやるべきなのか…。物事は何でもそうですが、やらされているという感覚だったらうまくいかないし、前には進めません。でも私の場合、子どものころから自発的に動いていたんです。今思えば、それはとても幸運なことでした。

本番までを自己採点する。だから大丈夫だ、と

もうひとつの転機は、13歳で井村シンクロクラブに移籍したことです。何が良かったかといえば、移籍したこと自体が自信になったこと。先輩はみんなジュニアオリンピックで優勝していましたから、自分も当然、優勝できると(笑)。できることも、できないと思ったらできなくなる。できないことも、できると思ったらできる。私はここで、環境というものがプラスアルファをくれることを知りました。

ただ、練習は厳しかったですよ。要求も高かったし、まわりも熱かった。日本代表に入るより、このクラブのAチームに入るほうが難しいと言われるほどでしたから。

シンクロは、選考会の個人成績で代表が決まります。選考会までは個人競技、代表に決まると団体競技になるんです。個人競技としての一発勝負のプレッシャーは重くのしかかります。私は、過程を大事にしていました。自分なりに基準を毎日作っていたんです。今日はその基準を超えられたかどうか、自分に合格点を与えられるかどうか、毎日自分自身に問うていました。この合格率が高かったら、選考会の前に踏ん切りがつけられます。あれだけ自己採点がよかったんだから大丈夫だと。言ってみれば自己満足なんですが、実は自己満足って、ものすごく大事なんですよ。


夢だったオリンピック出場は、
アトランタで果たした。
だが、メダルも獲得したこの大会は、
自分の中では
満足のいくものではなかったのだという。

練習を楽しめたのは、練習に意味があったとき

現役時代にシンクロを辞めてもいいと思ったのは、アトランタ大会前の代表合宿のときだけでした。夢への思い入れが強かった分、集中力や緊迫感など、精神的なピークが代表選考会に来てしまって。そして代表になって待っていたのは、連日朝9時から夜9時までの半端じゃない練習。シンクロ競技は1曲で1500mレースと同じくらい消耗すると言われるんですが、後半3時間これを延々と繰り返す。ダウンする選手が出ると、むしろ練習が足りないからだとコーチから言われました。

コーチの目的は選手の限界を超えさせることでした。人は、潜在能力はとても大きいのに、自己防衛本能で低いところに限界点を置いてしまいます。実際、限界点を超えた素晴らしい演技ができる瞬間もあるんです。できるのに、なぜやらないのか。それをコーチから指摘されるんですね。本当にきつかった。このときばかりは、もう辞めてもいいかなと思いました。

実は、当時の私は、コーチの言うままにやるばかりだったんです。だから、苦しかったんですね。そこで、次のシドニーオリンピックの代表合宿では考えました。自分が練習を楽しめていたのは、どういうときだったのかと。それは、練習に意味を持っていたときでした。意味があれば、やれるんです。なぜ、こんな風に手のかき方を変化させる必要があるのか。考えながらやると理由が見えてくる。小さな成果で自分の成長を確認しながら、代表合宿を過ごしました。これは充実しましたね。

採点なんて、どうでもよくなっていた瞬間

シドニーでのチーム競技のテーマは空手。数千人の観客であふれたプールで空手の構えをした瞬間、轟音のような歓声が聞こえてきました。地響きで足元が揺れたと思えるくらい。その真ん中に自分たちがいる。これがオリンピックだとようやく思えました。このために自分たちは準備してきたんだ、と。そして、大歓声の後の一瞬の静寂。自分たちのためだけの空間がそこにある。気持ち良かったですね。競技人生でまさに最高の瞬間でした。そして演技が終わると、厳しかったコーチの顔からも笑みがこぼれて。採点なんてどうでも良くなっていました。目指していたのは、自分たちが理想とする演技だけでしたから。

アテネで引退することは決めていました。狭い社会しか見てきませんでしたから、引退後はいろんなことをやってみたいと思っていました。ただ、改めて思うのは、スポーツの世界から離れると、目標設定が非常に難しくなるということ。でも、だからといって限界を作って小さくまとまるのはよそうと思いました。「二兎を追う者は、一兎をも得ず」ということわざがありますが、私は一兎も二兎も三兎も追いかけたい。去年、結婚もしましたが、これからもいろんなものを追いかけていきたいと思っているんです。

振り返ってみると、これまでの人生で「今、自分は頑張ってるな」と思ったことは、一度もなかったんですよね。好きなことを本当に好きでいるためには、しんどいことって必要なものだから。そのことが小さいころから自然とわかっていたんだと思います。頑張ることって、実は当たり前のことなんですよね。

EDIT
高嶋千帆子
WRITING
上阪徹
DESIGN
マグスター
PHOTO
栗原克己

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