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15年続いた安定事業を手放してリ・スタート――リスナーズ株式会社 代表取締役CEO 垣畑光哉さん【起業家たちの選択と決断】

垣畑光哉さんは、外資系保険会社に10年勤務した後、ノウハウを活かして起業。保険会社50社、保険代理店200社ほどのクライアントを抱えるほか、外資系金融機関から新規事業立ち上げを託されるなど、業界での地位を確立した。

ところが、会社設立から15年目、堅調な業績を挙げているにも関わらず事業を売却。社名を変更し、まったく異なるビジネスを立ち上げた。

それは、「人と企業のストーリーをつくる」というもの。人や企業の魅力、価値をインタビューからストーリーに書き起こし、紙媒体とウェブを併用して広くシェアすることで、共感した人同士のマッチングを図る、いわば「メディア」「データベース」事業である。

独立起業、そして第二創業に至るまでにどんな「選択」と「決断」があったのか。そのプロセスと想いを伺った。

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リスナーズ株式会社 代表取締役CEO 垣畑光哉さん

充実した会社員生活10年目。急ブレーキがかかる

垣畑さんが新卒で就職したのはバブル期のさなか。大手企業では大量採用が行われていたが「大きな組織の歯車になるのは嫌だ」という反抗心から、当時まだ日本では知名度もなかった外資系保険会社に入社した。保険という成熟した市場に、新しいマーケティング手法で勝負をかけているところに惹かれた。

少数精鋭の組織で最先端のマーケティングノウハウを身に付け、20代で年収1000万に到達。収入はもちろん、責任ある仕事、そして業界の先頭を疾走しているという充実感があったという。しかし入社10年目、突然転機が訪れる。交通事故に遭い、長期入院。これが、初めて自身のビジネス人生を振り返り、今後の自分を見つめ直すきっかけとなった。

「今の道をこのまま進んでいっても、心から目指したい目標や理想を持っていないことに気付いたんです。であれば、会社にぶら下がり続けるよりも、自分の脚で歩ける人間になりたい、自分で人生を切り拓きたい、という気持ちが湧いてきました」

「起業」という選択肢が浮かび上がったが、安定した高収入を捨てることに不安がなかったわけではない。それでも独立起業を決断できたのはなぜだったのか。

「病院の窓から、小さな中華料理屋さんが見えていたんです。古びた店で、客の出入りはまばらだけど、どうやら経営は成り立っている。経営者らしき老夫婦はヒマになると玄関先のイスに座って外を眺め、穏やかな時間を過ごしている。その姿が幸せそうに見えたんです。大成功しなくても、最低限の生活の糧を得て、幸せに生きていくことはできる。そう考えて腹をくくりました」

その翌年に会社を退職。まずは個人創業し、2001年に保険のマーケティング会社を設立した。ダイレクトマーケティングのノウハウへのニーズは高く、業績は右肩上がりに伸び、少人数で高収益を挙げるモデルを作り上げた。途中、さらなる成長を目指して新規事業に参入するものの3年で撤退するという失敗もあったが、本業は順調に推移していった。

「保険」のプロなのに「ウエディング」の本を出版!?

転機が訪れたのは、創業から12年目のことだ。ある雑誌から保険の特集ページの監修を依頼され、それが好評を得て次に1冊の保険特集号を監修。さらなるリクエストに応える形で、保険プランナー30人にインタビューを行い、その仕事観や保険選びのノウハウを紹介する書籍を出版した。

すると、ウエディング会社を経営する友人からある相談が寄せられた。

「ウエディングプランナーの仕事を啓蒙する本をつくってほしい、と言われたんです。最初はポカン…としてしまいましたね。保険とはまったくの畑違いですから。さすがに迷いましたが、思い切って引き受けました。やってできないことはないだろう、と。僕は子どもの頃から、『そんなの無理だろう』と言われると挑戦したくなる性分なんです(笑)」

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こうして垣畑さんは、ウエディングプランナーら16人に自らインタビューを行い、結婚式の意義や仕事の醍醐味を伝える本を出版。すると、さらに意外な展開が待っていた。
経営者仲間たちから「自分も本を出したい」という相談が寄せられたのだ。無名のベンチャー企業は人材採用に苦戦している。優秀な学生や若手を呼び込むために、本を使ってベンチャーで働くメリットを伝えたい、というわけだ。

そこで、23社の経営者が登場し、自身の思いやビジョン、若手へのメッセージを語った書籍を幻冬舎から出版。他の経営者たちから「自分もメッセージを発信したい」という声が相次いだことからシリーズ化し、取材した経営者は300人に達した。

「企業や人のストーリーを伝える」をライフワークに

 出版の効果は目に見えて現れた。

「『本を読んで社長の理念に共感した』と、優秀な学生が応募してきてくれた」
「自社社員が改めて社長の理念やビジョンを理解し、モチベーションが高まった」
「内定者の親がベンチャー企業への就職を反対していたが、認めて応援してくれるようになった」

――そんな感謝の言葉が寄せられたのだ。
 垣畑さんは「メッセージを発信する」ことの大切さを実感したという。

「それぞれの企業、それぞれの人ならではの『ストーリー』がある。それをちゃんと伝えることで、共感する仲間が集まり、組織が活性化し、成長が加速していく。それをお手伝いできるなんて、こんな面白い仕事はない!と思いました」

以前は「マーケティングのプロ」を自負していた垣畑さんだったが、新たな自身の「得意」に気付いた。それは「聴く力」だ。相手の気持ちに寄り添い、相手の話にじっくり耳を傾けていると、不思議と自然に心を開いてもらえる。また、客観的な視点で問いかけることで、相手が自覚していなかった魅力も引き出すことができる。その力を活かして、企業のストーリーをつくり、発信することをライフワークにしようと決断した。

安定した事業を譲渡し、リスク覚悟で一から再スタート

従来の保険マーケティング事業を収益の柱としながら、「ストーリーづくり」の新規事業に取り組むという選択肢もあった。周囲からも「そうしたほうがいいのでは」と言われた。

しかし垣畑さんは、既存事業をあえて手放す決意をした。

「保険もやって取材もやる会社に、ストーリーを感じてもらえないと思ったんです。2つの事業が自分の中では矛盾なくつながっていても、わかりにくいストーリーは共感されにくい。『すべての人に一冊のストーリーを』というコンセプトに合わせて社名も人員も一新したほうが、結果的には営業面でも採用面でもプラスに働くはずです。それに、年齢的にも、リスクをとってでも本当にやりたい仕事に賭けたいという想いはありましたね」

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 こうして垣畑さんは既存事業を他社に譲渡。「聴く」というコンセプトを反映した「リスナーズ株式会社」に社名変更し、2016年春、第二のスタートを切った。

コアコンピタンスを「出版」から「人と企業のストーリーづくり」へと置き換え、対面配布できるブックレットと、SNSと親和性の高いウェブサイトをセットにした新サービス『LISTEN(リスン)』を開始。ストーリーのデータベース化を目論む。最初は一人で始める覚悟だったが、編集・執筆、Web制作など、各分野のプロフェッショナルが垣畑さんの想いに共感し、集まり始めている。

「企業の未来、働く人の未来をよりよく変えていけるようなストーリーを1つでも多くつくっていきたいですね」 

<垣畑さんの「選択」と「決断」のポイント>

  • 現状の延長線上に、心から実現したいと願う目標や理想があるかを見つめ直した。
  • 「今ある幸せが、必ずしも本当の幸せとは限らない」と現状を一旦否定した。
  • 得意分野ではないことに取り組む機会に出会ったとき、拒むのではなく、チャレンジした。
  • 自分の「得意」「やりたい」を途中で発見したら、それを活かす道へと軌道修正した。
  • 「時間」を含む限られたリソースを最大限に活かすために、「捨てる」勇気を持った。

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EDIT&WRITING:青木 典子 PHOTO:田中 振一

 

【20代の不格好経験】会社設立3年目に資金ショートが発覚、「社長に物言えない組織」を反省~株式会社ファームノート代表取締役 小林晋也さん

今、ビジネスシーンで輝いている20代、30代のリーダーたち。そんな彼らにも、大きな失敗をして苦しんだり、壁にぶつかってもがいたりした経験があり、それらを乗り越えたからこそ、今のキャリアがあるのです。この連載記事は、そんな「失敗談」をリレー形式でご紹介。どんな失敗経験が、どのような糧になったのか、インタビューします。

リレー第19回:株式会社ファームノート代表取締役 小林晋也さん

ライフスタイルアクセント株式会社CEO 山田敏夫さんよりご紹介)

 

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(プロフィール)
北海道帯広市生まれ。機械部品の商社で営業を担当した後、2004年にCMSプラットフォーム「Movable Type」を専門とするシステムインテグレーター株式会社スカイアークを創業、代表取締役に就任(現任)。2013年11月にスマート農業ソリューションを提供するITベンチャー、株式会社ファームノートを立ち上げ、代表取締役に就任。

 

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▲酪農・畜産経営を効率化するクラウド型牛群管理システム「Farmnote」。スマートデバイスへのタッチ操作だけで牛の個体管理ができ、牧場経営の「見える化」が可能になると評判を集めている。このほど、牛の個体情報をリアルタイムで収集するセンサーデバイスを開発、管理データのリアルタイム化を実現している。


「来月末に700万円分の支払いがあるのに、手元に70万円しかない」

 2004年にCMSプラットフォーム「Movable Type」を展開するスカイアークという会社を立ち上げました。その後、2013年にクラウド型牛群管理システムを手掛けるファームノートを設立し、現在は2社の代表取締役を務めています。

 初めに立ち上げたスカイアークでは、さまざまな失敗やトラブルを経験しました。中には「もうだめか…」と倒産を覚悟するようなトラブルもありましたが、一つひとつ乗り越え、何とか今日まで来られました。それらの経験が糧となり、2社目のファームノートの立ち上げは比較的スムーズでしたね。すべてが一度経験したことですから。

 スカイアークで初めに「もうだめか…」と思ったのは、設立3年目の時。経理のすべてを任せていたスタッフがいたのですが、彼から突然「来月末に700万円分の支払いがあるのに、手元に70万円しかない」と打ち明けられたんです。それまで経営が危ないと思ったことは一度もなく、完全に寝耳に水でした。

 原因は、私があまりに経理に無頓着で、彼に任せきりになっていたこと。そして、会社の立ち上げ期だけに「自分が頑張らねば!」と走り続けていたため、知らず知らずのうちに「気軽に声を掛けづらい雰囲気」を出していたこと。…だからといって、直前まで資金が足りないことを黙っているのはどうかと思いましたが、泣いても笑っても、会社の寿命はあと1カ月。どうすればいいか冷静に考え、その直前にたまたま食事会で出会ったベンチャーキャピタルの方に連絡、何とか出資をいただけることになりました。

 このベンチャーキャピタルの方は、たまたま私と同じ帯広の出身。ぱっと顔が浮かびましたし、先方も突然の申し出にもかかわらず快く話を聞いてくれました。出資をいただいたのは、もちろん当社の事業を評価してくれた結果ではありますが、帯広出身でなければ話を聞いてくれたかどうか。

 この時の失敗経験から、「社長に自由に意見を言える環境を作らないとダメだ」「応援してもらえる要素があればあるほど、生き延びられる確率が上がる。“地元愛”が応援の要素になることもある」という学びを得ました。

「自分が一番できるから」と権限委譲をしてこなかった

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 しかし…振り返ってみれば、それから約10年間、ファームノートを立ち上げるまでは、学びを活かし切れていなかったように思います。

「社長に自由に意見を言える環境を」と言いながら、「自分がやるのが一番手っ取り早いし正確だ」と、周りに仕事を任せてきませんでした。もちろん、社員は大勢いましたが、完全に権限移譲することはありませんでしたね。自分よりできる人であれば任せたい気持ちはありましたが、そういう人を探す努力もしませんでしたし、既存の社員を自分よりできるぐらいに育てようという意識も低かったのです。

 そんなある日、ある畜産農家の経営課題に触れ、クラウドを使った牛群管理システムを手掛けるファームノートを立ち上げることになりました。「この新しいビジネスにかけよう!」という思いから、100%コミットしていたスカイアークの事業を社員に権限移譲したんです。すると…売り上げ、利益ともにぐんと上がったから驚きました。

 おそらく、私がずっと先頭に立って旗を振り続けていたから、社員はみんな私に意見を言いづらく、それぞれの力も発揮しづらかったのでしょう。「社長の影響力が強すぎる会社は、社長に意見を言いづらくなり、伸び悩む。社員に権限委譲し、任せる会社が伸びるのだ」と改めて実感させられました。

酪農家の「絶対に作ってほしい」とのニーズに触れ、クラウド型牛群管理システムの立ち上げを決意

 ファームノートを立ち上げたのは、スカイアークに酪農家から問い合わせが入ったのがきっかけ。詳しく話を伺っているうちに、飼育している牛一頭一頭を管理する苦労に触れたんです。

 例えば、牛舎を回っていて「この牛、ちょっと元気がないな」と思ったら、事務所まで戻って紙で管理した資料の中からその牛の体調変化や治療歴などを見なければならない、とのこと。これをクラウドシステムで管理すれば、スマートフォンやタブレットなどでその場で確認できますし、その牛のデータもどんどん蓄積される。酪農・畜産経営の生産効率が高まり、経営も安定すると想像できました。

 そこで、「この分野に特化した会社を立ち上げよう」と決意。まる1日かけて何千ページという関連資料を読み込み、クラウド型牛群管理システム「Farmnote」のベースとなる事業計画を練り上げました。そして、知り合いづてに3件の酪農家を紹介してもらい、事業計画を見てもらったんです。すると、3件すべてから「絶対にやるべきだ。やってほしい」との意見をもらえました。ユーザーが求めているならば絶対にやるべきだ、と改めて背中を押されました。

 会社の立ち上げは2回目。やり方は覚えていましたし、同じ轍は踏みませんでした。システムの仮説検証に必要となる、ある程度まとまった自己資金を用意し、その後第三者割当増資を実施する計画を立てました。結果、資金面でとん挫することはありませんでした。

システムの仮説検証の過程で「収益化が難しい」ことに気づき、方向転換

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 しかし、今までに経験したことのない壁に、新たにぶつかりました。仮説検証の過程で、「このソフトウェアだけでは利益は得られない」ことに気づいたのです。

 日本の酪農畜産市場は、約1.3兆円。この市場に特化したシステムを作っても、上げられる収益には限界があるとわかったからです。そして我々の前に何社か、同じシステムに挑戦したベンチャーがあったこともわかりました。でも、いずれも利益を確保できず、撤退を余儀なくされていたとのこと。「ユーザーが抱える課題を解消したい!」という思い先行で突き進んできたことを反省しました。

 ここで、農家が求めているものは何か、改めて熟考しました。「Farmnote」に対して農家が感じている最大のメリットは、一頭一頭の詳細なデータがクラウド上に蓄積されていくこと。そのデータを最大限活用する方法を考える中で、「データのリアルタイム性」の重要さに気づきました。

 牛にセンサーを付け、牛の情報をリアルタイムでつかむことができれば、スタッフが目で見て手入力するよりも、さらに詳細なデータが入手でき、いち早く「牛の変化の兆し」に気づくことが可能になります。

 センサーを付ければ、移動距離、採食、半数、睡眠などのデータがつかめます。例えば、病気になったらエサの摂取量が減り、移動距離も短くなるため、兆しをつかんですぐに治療を行うことで健康な牛を増やすことができます。逆に発情期に入ったら活動が活発化し、同じところをうろうろし始めるようになります。このタイミングで人工授精すれば、妊娠の確立が上がり、効率のいい繁殖が可能になります。

 国内では、約400万頭の牛が飼育されていると言われています。これらの牛一頭一頭にセンサーをつけることを考えれば、我々の収益可能性は一気に広がります。

 そこからすぐにセンサー開発に着手、約2年かけてこのほど完成させました。当初のファームノートの事業イメージとはだいぶ変わりましたが、酪農家のためになるものが作れましたし、ようやく収益ベースに乗せられるイメージもつきました。

 なお私は、この過程で何百という農家のもとを訪れ、現場を経験し、農家の経営状況を見ています。現場を知り、ユーザーである農家を知らなければ、本当に支持されるものは作れないと考えているからです。今では農家に「小林さんは私以上に牛のことを知っている」と言われるまでになりました。

 もちろん私一人の知識で終わらせず、得た知識はメンバー全員に共有し、権限委譲も進めています。社員のうち、半数以上は私と同じぐらい牛に精通しています。残りは社歴の浅い新人ですが、新人には1カ月間、現場を経験してもらい酪農家の課題や不満、不安を理解し、経営をコンサルテーションするという研修を実施。着実に知識量を増やしてもらっています。…この点においても、スカイアークでの学びを今に活かせているのではないかなと思っています。

将来は牛のみならず、「食全般」の生産効率向上に尽力したい

 今は牛に特化し、牛群のパフォーマンス最大化を目指していますが、将来は広く「農業全般」に目を向けていきたいと考えています。

 2050年に地球の総人口は90億人を超えると試算されていますが、そうなると1人当たりの農地面積は今より3割足りなくなると言われています。今は食料が潤沢にありますが、早晩食糧危機が訪れる。第一次産業において食の生産効率を高めることが、食糧危機の回避につながると考えており、その一助を我々が担いたいと考えています。

 まず2020年に国内の農業、つまり牛以外の豚舎や鶏舎、そして畑作等にも進出し、2030年にはグローバル展開において成果を上げたい。その頃には、需要と供給を測って余剰生産をなくすなど、別のアプローチからの効率アップにも挑戦したいと考えています。

自分にとっての「スーパーサイヤ人」を見つければ、手っ取り早く夢に近づける

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 自らに制約条件をつけてしまうと、人は行動できなくなります。

 せっかくやりたいことがあるのに、知識量や経験量を理由に自分に制約条件をつけ、「まだ知識が足りないから挑戦できない」「勉強する時間がないから挑戦できない」などと言い訳する人がいますが、そんなことを言っていたらいつまでたっても先には進めません。

 これらを簡単に解決する方法として、私は「スーパーサイヤ人理論」をお勧めしています。

「スーパーサイヤ人」とは、漫画『ドラゴンボール』に登場する戦闘民族「サイヤ人」が戦闘力を上げるために変身した形態のこと。主人公である孫悟空などがそれに当たりますが、「地球人であり、サイヤ人に比べれば戦闘能力が低い」キャラクターであるクリリンは、悟空と行動を共にすることで、地球人としてはあり得ない戦闘経験を積み、「世界で最も強い地球人」になりました。

 目指す分野において優れた経験を積んでいる人、すでに大きく成果を挙げている人など、自分より10倍すごい人、すなわち「自分にとってのスーパーサイヤ人」を見つけ、近づく努力をする。そして近くでその一挙手一投足を見て学び、助言を得ることで、知識量や経験量の制約を軽く飛び越えることができます。

 ファームノートの株主には、スーパーサイヤ人ばかりに入っていただき、悩み事はすぐに相談しています。いよいよ行き詰まってどうしようもないときでも、すぐに「仙豆」(センズ:『ドラゴンボール』に登場する奇跡の豆)をくれる。会社を上場に導いた経験者もいて、私の悩みは皆さんどれも経験してきたものばかりなので、アドバイスが実に明快なんですね。「なるほど!」と一気に視界が晴れるんです。

 同じレベル、もしくは同じレベル以下の人とばかりつるんでいては、成長はありません。目標がある、やりたいことがあるならば、常に自分より10倍すごい人とぜひ出会う努力をしてほしいですね。

 スーパーサイヤ人に「仙豆」をもらえるぐらい近しい存在になるには、素直に教えを乞い、次回会うまでにそれを実践して報告すること。できたこと、できなかったことを分析して次への課題を洗い出すことも大切。努力が見えれば、人は応援したくなるものです。新しい助言をさらに実行していく過程で、どんどん自分を磨き上げていくことができるでしょう。いつの間にか、知識量や経験量の制約がなくなっているはずですよ。

 

EDIT&WRITING:伊藤理子 PHOTO:平山諭

>>【あわせて読みたい】「20代の不格好経験」シリーズ

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昔はクールな二枚目だった!?ルー大柴がキャラをチェンジした意外な理由とは

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ビジネスパーソンのお悩みを、「トゥギャザーしようよ」でおなじみルー大柴さんがルー語でチアー(応援)していく「ルー大柴のキャリア相談室」です。 今回は、職場環境への悩みにフォーカス。仕事への目標の立て方や上司との関係などは、あなたにも身に覚えがあるかも…?さらに、「面白い人間には?」という悩みにルーさんが過去のエピソードを交えてアンサー!

あるときはポジティブに、またあるときは優しく。ルーさんが送る熱いルー語を、ハートに刻んでいきましょう。

相談1:「仕事に対しての目標が持てません」

就職活動中、唯一内定をもらえたからという理由で今の会社に経理担当として入社しました。仕事内容に不満はないのですが、営業などの数字を追いかける業務ではないため、毎日なんとなく過ごしてしまい将来何を目標にすればいいのか分かりません。こんな私ですが、意欲的に仕事に向き合うためのアドバイスをいただけませんか?(20代、経理、男性)

まずはストーンの上にスリーイヤーズ!無駄の中にトレジャーがある

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 「仕事で目標を持ちたい」と思うあなたは真面目な人! 仕事がつまらないなら、割り切ってプライベートを充実させる、というウェイ(道)もありますからね。

どちらにしても今の状況に不満がないなら、まずは一生懸命仕事を覚えて改善点を自分なりにルックフォー(探)してはいかがでしょう。経理の仕事でも、書類を見ながら「この予算はもっとこちらに回せる」と気づくことがあるはず。それを上司に意見すれば、会社が少しずつ変わっていく。どんな小さなことでも目標を立ててクリアしていけば、仕事にも面白みが出てくるかもしれません。

やはり何事もストーン(石)の上にもスリーイヤーズ(三年)!将来的に経理担当の重役になれば、社内の誰もが経費で困ったときにあなたに頼ってくる、なんてこともあり得ますよ。無駄の中にこそトレジャー(宝)があるんです!

 相談2:「上司がパワハラの鬼です…転職するべきか留まるべきか悩んでいます。」

異業種から今の職種に転職しました。ずっとやりたい仕事だったので、やりがいを感じています。ただ上司からパワハラの連続。理不尽なことで怒られたり、残業や休日出勤を当日や前日にいきなり命じられたり。仕事は楽しいけれど、この上司からの不当な扱いには耐えられません。職場に相談もしているのですが、効果的な解決方法が見つかりません。転職すべきか、今の状況に耐えるべきか?どうすればいいでしょうか?(30代、イベント会社、女性)

泣きっ面にビーは避けたい!辛い人間関係は反面ティーチャーに

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私もヤングな頃、付き人をしていたのですがストレスでしたよ!相手が映画スターでしたからいつもヨイショしないといけませんし、無茶も言うけど逆らうなんてもってのほか。当時は私もまだ高校を卒業したばかりのチャイルド(子ども)でしたから、スリーデイズ(三日)坊主で辞めようと思っていたのですが、結局2年半務めて、彼の付き人歴が歴代ナンバーワンになってしまいました。

やりがいを感じて仕事が楽しいなら、私は踏み止まったほうが良いと思います。転職も大変ですし、新しい職場になじめる保証もないわけですし…。いま苦労をしているのに場所を変えても報われなかったら、それこそ、泣きっ面にビー(蜂)ですよ。 あなたは、ドリーム(夢)を抱いてこの仕事についたわけですよね。でも、乗り越えないといけないステップがたくさんあったり、人付き合いが面倒だったり、現実にはさまざまなことが起こります。でもそれらをエクスペリエンス(経験)し、反面ティーチャー(教師)にすることであなたの財産になっていくはず。

ただ私は長年生きてきて、人間誰しもより良い生き方をする権利がある、と常々思うようになりました。ボディに支障が出るくらいひどいなら、同業他社への転職も考えるべきかと思います。健闘をお祈りしてます!

相談3:「うまい返しができる、ノリのいい人間になりたいです」

明るくノリが良い上司は、何かと「ボケ」や「ギャグ」を挟んできます。しかし私はうまく反応できず、いつも場がシーンとしてしまいます。職場を和ませてくれる上司のひょうきんなところが好きなのですが、自分がうまくリアクションできないせいでスベっているようになって申し訳ないです。かといって、お笑い芸人のように騒ぐのも苦手です。ルー大柴さんのように、咄嗟の場合でも気の利いた、面白いことが言える人間になるにはどうすべきでしょうか?(20代、商品企画、女性)

 隣の芝はブルーに見えるもの。あなたのキャラを振り返っては?

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ウケたいならディフィカルトに考えないで、場数を踏みましょう!下手なピストル(鉄砲)も数撃ちゃ当たるので、怖がらずにスベってスベってスベりながら、自分で鍛えていくしかない。一回でもドカンとウケると自信になりますから、これぞ良薬はマウス(口)にビター(苦し)です。

しかし隣の芝はブルー(青い)といって、上司のことは魅力的に映るかもしれませんが、一度あなたのキャラを振り返ってもいいですね。

私も昔は、クールな二枚目キャラとして売りたかった。いつか国際的な俳優になるんだと決めて、気取ったスターになりきっていたんですよ。ところが、オーディションで周りを見ると背が高くてスタイルがいい人ばかり。「もしかして、オレはそこまでカッコよくないのか?」と気づいて弱腰になってしまいました。かといってそこで後戻りはできなかったので、私にできることはなんだろうと考えたら、周りをハッピーにさせる親しみのあるキャラクターだと気付いたんです。そして現在に至るわけですが、漫才ができる芸人さんではないし、タレントさんとも違うし、私はノージャンルの人間なんですよ。

あなたがもし「ひょうきんな面白い人間になりたい!」と思うなら上司を真似てみればいいし、そんなことはできないと思うなら無理にスベる必要はありません(笑)上司もあなたの真面目なリアクション込みでウケを狙っているのかもしれません。年を取るとそういう人が増えるんですよ(笑)

▼今回登場した主なルー語

・ストーン(石)の上にもスリーイヤーズ(三年)

  

・無駄の中にこそトレジャー(宝)がある

 

・スリーデイズ(三日)坊主

 

・泣きっ面にビー(蜂)

 

・下手なピストル(鉄砲)も数撃ちゃ当たる

 

・良薬はマウス(口)にビター(苦し)

 

・隣の芝はブルー(青い)

 

 ルー大柴

1954年新宿に生まれる。日本語と英語をトゥギャザーした話術を使う独自のキャラクターで活躍。芸能活動のほか、2007年NHKみんなのうたに採用された「MOTTAINAI」をキッカケに、富士山麓の清掃や地域のゴミ拾いをするなど環境活動にも積極的に取り組む。趣味はドジョウやメダカの採集、水墨画。茶道・遠州流師範、山野美容芸術短期大学客員教授も務める。Twitter@ louoshiba_

<WRITING>伊藤七ゑ <PHOTO>岩本良介 

 

イチローズモルトが愛されたのは、“らしさ”を大事にしたから【株式会社ベンチャーウイスキー取締役社長 肥土伊知郎氏の仕事論】

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肥土伊知郎(あくと・いちろう)

1965年、埼玉県秩父市生まれ。 東京農業大学醸造学科卒業後、サントリー入社。営業企画、営業職に従事する。28歳の時、父が経営する家業の造り酒屋に入社。その後、同社は他社に譲渡され、ウイスキーの原酒は期限付きで廃棄されることとなる。その原酒を笹の川酒造に預け、ベンチャーウイスキー社を設立。2007年には秩父蒸溜所が完成し、最初につくったモルトウイスキー「秩父 ザ・ファースト」が米国の専門誌でジャパニーズウイスキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

 

香港のオークションで
54本セットが4800万円で落札。
大きな話題となった国産ウイスキー
「イチローズモルト」。
1本の値段は平均1万円もするが、
いつも完売状態だという。
伝説のウイスキーを造った背景には、
一人の男の決断と苦労があった

 

もの造りがしたくて、経営不振の会社に転職


転機はサントリーを辞めたことでしょうか。28歳の時です。サントリーには新卒で入社し、最初は営業企画の仕事をしていました。でも、私の考える企画は机上の空論といいますか、現場を知らない人がいうことだと営業から指摘を受けまして。それで、営業に異動願を出したんです。仕事は面白かったですよ。飲食店だけでなく問屋や酒屋などいろんなお客様と接することができましたし、非常に勉強になりました。頑張りが認められて2回ほど社内の業績表彰も受けたこともあります。

それなのになぜ辞めたかというと、仕事にやりがいを感じつつも、心のどこかで「もの造りがしたい」という気持ちがあったから。大学で醸造学を専攻したのもその理由からでしたし、サントリーでも山崎の蒸溜所で働きたいという希望がありました。でも、当時は大学院を出ていないと技術者として働くことは難しかったので、文系職で働いていたんです。仕事は順調でしたが、いつしか「このまま、この仕事をしていていいのか」と考えるようになっていて。

そんなとき、父から「うちの会社 (家業)を手伝ってもらえないか」と誘われたんです。もともとうちは江戸時代(1625年)から続く造り酒屋で、祖父の代からは秩父に蒸溜所(羽生蒸溜所)を作って、日本酒だけでなくウイスキーの製造も始めていました。ですから父から誘いを受けたとき、これは渡りに船だなと(笑)。業績が悪いことは聞いていたのですが、深く考えずに転職することにしたんです。

 

400樽のウイスキーの原酒を見捨てることはできず、会社を興した


しかし入社してみると、父の会社は思っていたよりずっと業績が悪かった。杜氏の高齢化が進み、人手不足になることを懸念し大規模な設備投資をしたんですが、そのことが足を引っ張って思うように業績が上がらなかったんです。

ウイスキーだけでなく日本酒も市場が小さくなっていった時期で、好まれるのは紙パック入りの日本酒やペットボトルに入った焼酎など、安価な酒でした。時流に合わせる努力をしたものの、なかなかうまくいかず、結局、家業は関西の会社に買収されることになりました。

従業員はすべて買収先の会社で雇ってもらうことになり、自分も誘われたのですが、話せば話すほど経営方針が合わない。一番気にかかったのはウイスキーのことです。ウイスキー部門は廃止にすると言われて。貯蔵期間が長くかかるウイスキーは見込みがないと思ったんでしょうね。羽生蒸溜所にある400樽分の原酒は期限付きで処分されることになりました。自分で引き取ろうと思っても製造免許が必要となる。だからといって、せっかく20年も熟成させた原酒を捨てられない。どこか引受先がないかと、あちこちの会社に聞いて回って、原酒を置いてくれる造り酒屋を見つけたんです。福島にある笹の川酒造という蔵元です。私の話を聞いた社長さんが、「手間暇かけてつくった原酒を捨てるわけにはいかない」と、空いている倉庫を使わせてくれたんです。その後、笹の川酒造さんに手を貸していただきながら造ったウイスキーが、「イチローズモルト」です。

 

その後、2007年に
肥土氏は秩父に秩父蒸溜所をつくり、
自社でウイスキーの
製造、販売を始めた。
なぜ、世界的に評価される
ウイスキーを造ることが
できたのか。

 

2年間で延べ2000軒。毎晩飲んで愛好家の好みを聞いて回った

 

実は、父の会社に入社した時、ウイスキーの技術者から「うちの会社のウイスキーは、くせがあって飲みづらい」と聞かされていたんです。実際に飲んでみると確かに個性が強い。でも味が濃くて複雑で面白いなと思いました。それで、ウイスキー愛好家が集まるバーに原酒を持ち込んで、テイスティングをしてもらったんです。そしたら「このウイスキー面白いね」と。そのとき店に置いてある通が好むウイスキーを試飲させてもらったのですが、どれも強い個性がありました。飲みやすいウイスキーばかり飲んでいた自分には目からウロコで。同時にウイスキーの可能性も感じました。市場自体は縮小しているものの、根強いウイスキー愛好家はいる。しかもウイスキーは横のつながりが強く、いいものを造れば口コミで広がっていきます。世の中の統計には出てこない「隠れた市場」を発見しました。

もうひとつ心を動かされたのは、そこにいる人たちが魅力的だったこと。そのバーでウイスキーを飲んでいる人たちは、男性も女性もすごくいい顔をしていたんです。いつか、こういう人たちに喜んでもらえるようなものを届けられたらいいなと、そう思いました。

ただ、父の会社で働いているときは業績も芳しくなかったですし、ほかの従業員の手前もあって、研究に没頭するわけにはいかなかった。それで、2004年新規にウイスキー事業を始めてから毎晩ウイスキー・バーに通ったんです。そこでお酒を飲みながら、ウイスキー愛好家が求めるものを聞いて回りました。1日3~5軒。2年間で延べ2000軒くらい回ったと思います。

 

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▲香港で4800万円で落札された54本のうちの1本。
「イチローズモルト カードシリーズ ジョーカー」

 

毎日夢を語っていると、いつしか協力者が現れ、夢が現実になる

 

よく、「新しい蒸溜所を作るにあたって一番大変なことは何でしたか?」と聞かれますが、何をやっても大変でした(笑)。新しく会社を立ち上げるのは本当に難しいことなんですね。ウイスキーの市場は縮小していたため、銀行からの融資も思うようにいかなかったですし。開業資金は親せきから借りてなんとか調達できたんですが、最初は従業員も雇えませんから、自宅をオフィスにして一人で始めました。できることから1つずつやっていくうちに、面白いウイスキーを造っている人がいると、うわさを聞いて人が集まってきたんです。

今思えば、“何をやりたいのか、周りにはっきり示した”ことがよかったんだと思います。「蒸溜所を作って、秩父らしいオリジナリティのあるウイスキーを造りたい」と、毎日毎日いろんなバーで夢を語っていたんですが、その話を聞いて協力してくれる人が現れました。夢に共感してくれる人がいることは、モチベーションにつながります。それに何度も言葉にしていると、やらなきゃならないことが明確になります。いつの間にか、夢が目標に変わっていったんです。そして話がどんどん具体化し、目標が計画になった。そして課題をできることから一つ一つこなしていくことで、形になっていたんです。

あとは、使命感が自分を支えていたんだと思います。会社が買収され、20年も熟成した原酒400樽を処分しなくてはならないと聞いたときは本当につらかった。今思うと、どん底でした。でも、原酒が子どものように思えてきて、何とか世に出してあげたいと強く願うようになった。それが自分の使命だと思ったんですね。だから必死であちこち駆け回ったんです。やっぱり使命感があったから、どん底でもパワーが出たんじゃないかと。ウイスキーを助けたと思っていたけれど、実はウイスキーに助けられていたのかもしれません。今はこのウイスキーを次の世代に残していくことが、自分の使命じゃないかと考えています。そうやって、何かを残していくことが、仕事の醍醐味なんじゃないかと思うんですよ。

 

【information】

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『イチローズモルト』 ベンチャーウイスキー
株式会社ベンチャーウイスキーが造る国産シングルモルトウイスキー「イチローズモルト秩父」。埼玉県にある秩父蒸溜所で肥土伊知郎氏をはじめ、数人の従業員の手でつくられている。北海道に買いつけに行った「ミズナラ」を樽職人がパンチョン樽に加工し自社のシングルモルトを貯蔵するなど独自の方法で個性を引き出し、秩父らしい、秩父でしか造れない味になるよう工夫されている。2006年には、世界中で読まれているイギリスの『ウイスキーマガジン』誌のプレミアムジャパニーズウイスキー部門で最高得点を獲得。世界的なウイスキーコンテスト「ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)」のジャパニーズウイスキー部門で、2007年から毎年入賞を果たしている日本が誇るウイスキーだ。

 ※リクナビNEXT 2016年6月15日「プロ論」記事より転載

EDIT/WRITING高嶋ちほ子 PHOTO栗原克己

超高学歴美女「REINA」がCIAでもFBIでもなくお笑い芸人を選んだ理由とは?

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インターポールは半分が派遣?FBIの最終試験は嘘発見器?そんな裏話を語るのは、まるで映画の主人公のような経歴をもつ異色のお笑い芸人・REINA。

世界屈指の名門校・ブラウン大学を卒業後、政府組織や国際機関でのインターンを経験し、CIAやFBIとも関わりをもつ。20代にして波乱万丈な人生を経験した彼女がこれまでのキャリアを捨て「一度人生をリセットしたいと思った」と、活躍の場を世界から日本に変え、お笑い芸人「セクシーチョコレート」として活動しながらいま思うこととは?

幼い頃から抱えていたテロへの疑問と、FBIの上司との出会い

-REINAさんは優秀なキャリアが注目を集めていらっしゃいますが、もともと勉強がお好きだったのでしょうか?

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特に勉強が好きだったというわけではありませんでしたし、両親から勉強しろと言われたことも全くありませんでした。ただ高校生の頃に勉強が楽しくなってきて「どうせ勉強するなら良いところに行きたいな」と思ったので、アメリカのブラウン大学を目指したんです。

また中学生の頃に2001年の911(アメリカ同時多発テロ事件)が起きたのですが、その前の1993年にも世界貿易センタービルはテロに遭っているんです。そのときは駐車場で車が爆発した程度だったのですが、当時父が同じビルで仕事をしていたためエレベーターが使えないなどの被害を受けて、幼いながらに「お父さんが危険な目にあったんだ」と思いました。911が起きた時にその時の記憶が蘇り、クラスメイトも家族を亡くしていて…テロがとても身近になったことに衝撃を受けました。「なぜこんなことが起こるんだろう」という疑問から、テロへの関心が徐々に強まっていきましたね。

-そして大学卒業後、CIAの内定を断りハーバード大学院に在籍しながらインターポールでインターンを経験されますが、国際機関という組織で特に印象深かった体験などはありましたか?

実はインターポールって、CIAやFBI、その他軍隊組織などから派遣された人たちから成り立っていて50%くらいは派遣なんですよ。そんな背景もあり私の上司がFBIの人で、とても私を可愛がってくれ貴重な体験をたくさんさせてくれました。彼は50歳を超え退職間近だったのですが、イラク戦争の経験もありずっと軍隊と共に生きてきた人でした。のちにFBIを受ける時に私を推薦してくれたのも彼なんです。

彼はいつも「REINA、自分がやりたいことをやるんだ。私にできることがあれば何でもサポートする」と言ってくれ、私が「こういう仕事をインターポールでやりたい」と言えば、スタッフを紹介してくれたり仕事を探してくれて、達成できるよう一緒に頑張ってくれる人でした。これはインターポールでしか体験できないことだったと思いますし、本当にありがたかったです。

だからこそ申し訳ないんですよね、FBIの内定を蹴って今はお笑い芸人をしているなんて口が裂けても言えません(笑)

-国際機関というとドライな印象がありますが、とても人情のある上司だったのですね。

決して給料が良い仕事ではないので、みんなお金目当てで働いているわけではないんですよね。愛国心があり、自分を犠牲にしてでも国や世界のために貢献したいという人が多かったです。だから本当に純粋で、良い人ばかりだったんですよ。

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組織に溶け込むために必要なのは、自分に求められている役割を見極めること

-そんな背景がありつつ、なぜFBIを断ってしまったのでしょう?

その後ロイター通信に在籍しつつFBIを受けたのですが、最終試験の一環である嘘発見器で「薬物をやっている」と判断されて落ちてしまいました。薬物なんてやってないと言ったのに…本当にやってませんよ!?(笑)実は、落ちた後に「もう一度試験を受けて欲しい」というオファーもあったのですが「薬物はやってない」という私の言葉よりも機械の判定を信じる組織に幻滅してしまい、再チャレンジする気になれませんでした。

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それまでずっと世の中を良い方向にしたくて政府関係の仕事をしてきたのですが、そこで私は組織という大きな機械の部品でしかなくて、自分自身の力で何かを変えることはできないと気づいたんです。

FBIを断ったその夜にロイター通信も辞めようと決意し、上司にメールで「あと一か月で辞めます」と伝えました。辞めるまでに、次に住む場所を探したり引っ越しの準備をしたりして、日本にやってきました。一度もやったことがないことにチャレンジして、人生をリセットしようと思って。

私、決断力がありすぎるというか、自分の直感を信じてあまり考えずにパッパッと決めちゃうんです。一度「これは違う」と思ったり楽しくなかったら、すぐやめちゃいますし。

-それでもこれだけの経験をされているのはREINAさんへの評価があってこそだと思います。なにか仕事上で心がけてらっしゃることはありますか?

自分に求められていることを見極めるのは得意だと思います。結果を出せるかはまた別なのですが、その場に応じて「自分は何をするべきか」「何を求められているのか」は、いつも人と話したり空気を読んだりして探るようにしています。 だからいま大変なんですよね、お笑いって自分に何を求められているのかが分からなくて(苦笑)。これまでと違い明確な指示内容があるわけではないので、とてもクリエイティブな仕事ですね。

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自分のアイデンティティーである日本という国に貢献しながら、世界を変えていきたい

-いま新たに国や立場を変えお笑い芸人というお仕事に就いて、想像と現実とのギャップなどはありましたか?

お笑いは好きだったのですが業界に関する知識は全く無く、期待しているものが無かったからこそすべてが新鮮です。私は事前に色々と予習や準備をするタイプなのですが、お笑い芸人の仕事には予想外のことが多くてまだまだついていけていません。

-これまでの仕事と違い、相方さん(セクシーチョコレート・デンジャーD氏)もいらっしゃいますからね。

そうなんですよ〜!私これまで相方みたいな人と出会ったことがなかったので、かなり衝撃的でした。元ニートで実家暮らし…って、そんな人と友達になったこともないですし、ましてやビジネスパートナーとして一緒に仕事するなんて考えたこともありませんでした。

デンジャーの趣味はパパラッチなのですが、まず「なにそれ」って感じで。その写真を売って儲けるとかならまだ理解できるのですが、例えばジャスティン・ビーバーのプライベート写真が撮れて「200万で売ってくれ」とオファーが来ても「俺のジャス(ティン・ビーバー)だから」といって売らないんです。全く理解できない(笑)

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あと、お笑いの仕事で苦労している点として、私自身がまだお笑いをつかみきれてないところもあるのですが、デンジャーがすぐに物を忘れてしまうんですよね(笑)メモをとっても自分の文字が読めなくて、内容を忘れるという。私が神経質なので、そういうことがあると「時間を返せ!」と思ってしまいますが、それが彼のいいところだと考えるようになりました。彼みたいにいつもリラックスしている人が身近にいると、バランスが取れてちょうどいいのかも。CIAやFBIではメモして「忘れた!」なんて言えませんからね(笑)

-お笑い芸人のお仕事以外にベンチャー企業の役員などもされていますが、そちらはいかがでしょうか?

様々な経験や出会いの連続で、お仕事自体はとても楽しいです。ただ、いままで“日本語で”仕事をしたことがなかったので、敬語の種類やメールの書き方、上司や先輩との上下関係など、日本のビジネスカルチャーも私には特殊に映ります。ですが今までそれらと無関係に生きてきたので、この慣習に慣れてしまったら自分ではなくなってしまうと思い、これまでのスタイルはキープしていきたいですね。

-これまで国際的に活躍されてきたREINAさんですが、今後は日本が新たな冒険の舞台となりそうですね。

いまでも目線は世界に向いているのですが、やはり私は日本人なんだと思うんです。ずっとこの国にいなかったのに、日本は私を受け入れて仕事を与えてくれる。それに対して、いつか恩返しができればと思っています。昔からボランティア活動などが好きで「なにかに貢献したい」という想いが強いので、いつか日本でチャリティー団体を立ち上げるのが夢です。それがのちに世界にもつながっていけたら理想的ですね。こうして芸能活動を続けられるのであればその知名度も利用しながら「どうすれば世界をもっといい方向にできるのか」ということを今後も考えていきたいです。

もちろんお笑い方面も、デンジャーと一緒にセクシーチョコレートとして、いろんなことにチャレンジしていきたいです!

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REINA

1988年生。ニュージャージー出身。ブラウン大学、ハーバード大学院卒。CIAの内定を蹴り、クリントン事務所やインターポールでのインターンなど、政府関連のキャリアを邁進するも、FBIの採用試験をきっかけに26歳でお笑い芸人になることを決意。「セクシーチョコレート」で芸人として活動する傍ら、ワンドロップス株式会社執行役員も務める。座右の銘は「Don't look back」。

<WRITING>伊藤七ゑ <PHOTO>岩本良介

「30代になり、自分の“役割”変えなきゃなと」人気バンドceroの髙城晶平が阿佐ヶ谷のバーで働く理由とは?

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ロート製薬が副業制度を導入するなど、デュアルワークやハイブリッドワークなどの言葉が注目を集めている昨今。しかし、成功したミュージシャンが副業としてバーで接客を行っている、と聞けばきっと驚くはず。

そのミュージシャンの名前は、髙城晶平。2004年に結成され、音楽メディアや音楽ファンのみならずミュージシャンからも高い評価を得るバンド ceroのメンバーだ。彼は人気バンドの主要人物として活躍する一方、阿佐ヶ谷のバー「Roji」では週に1度のペースでスタッフとしてカウンターに立っているのだ。人気番組『SMAP✕SMAP』にも出演するなど高い人気を誇るバンドのボーカルが、なぜバーでスタッフとして働いているのか? その理由をはじめ、音楽との出会い、音楽を仕事にすること、そして自身の思う“役割”について訊いた。

■親のレコードを聴いていた幼少期。しかし思春期に「自分の世代の音楽を見つけよう」と思い立つ。

 

—ceroは非常に音楽的評価の高いバンドですが、髙城さんの音楽との出会いはいつ頃なのでしょうか?

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それが小学校のときはまったくCDを買ったことがなかったんですよ。レンタルで短冊ジャケの8cmシングルを借りていたくらいで。でも中学のときにようやく音楽に興味を持ち、ゆずが好きになったんです。そこで父親のアコースティックギターを借りて楽器を弾き始めました。これなら自分でもできそうだと思って、すぐに作曲を始めたんです。

 

—音楽に興味を持ち始めていきなり作曲を始めたんですね。

○○っぽいコード進行というものがあることを知って、ゆずっぽいコード進行でそういう曲を書いてました。廣田(※本記事のカメラマン)とハートフルソング・マーケットという恥ずかしい名前のフォークデュオを組んで、一瞬だけ活動したりもしていましたね(笑)

 

—そこからceroに至るにはかなりの音楽性の広がりがありますよね。いつ色んな音楽を聴くようになったのですか?

もともと両親が音楽好きなので、家にレコードがたくさんあって、それを聴いていたんですよ。でも思春期の頃に「親の好きな音楽を聴いているのは恥ずかしい。自分の世代の音楽を見つけよう」と思って、ゆずを見つけたんです。だから親のレコードを聴いていたというルーツがあったという部分は、今思えば大きいと思います。

それに僕の中学時代は97〜99年なんですけど、くるりとかナンバーガール、中村一義、椎名林檎が出てきた時代でもあったんですね。そういう音楽もゆずと同時並行で聴いていて、彼らがどんな音楽から影響を受けたのかというのを雑誌で熱心に読んだりして音楽が広がっていきました。

 

—cero結成までは他のバンド活動もしていたのですか?

高校のときにceroのメンバーの橋本くんとコーヒー・フィルターというバンドを組んで、活動していました。アコギ3人、ベース1人、ドラム1人という編成で。基本的にはまだゆずっぽい曲をやっていたんですけど、橋本くんがフリッパーズ・ギター好きということもあり、ネオアコっぽさもありました。高校の廊下で3人揃ってアコギをかき鳴らすと、すごく倍音がキラキラして、ネオアコのあの感じが出てすごく良かったんですよ。

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■25歳までに成功できなかった焦燥感。亡き父がつないだ未来。

 

—その後ceroを結成するわけですが、高城さんは音楽を仕事にしようと思っていましたか?

僕は音楽で食べていきたい思っていましたね。バンドメンバーは特にそんな意識は持たずのんびりしてましたけど(笑)でも、僕はけっこう焦燥感があって「ヤバい、ヤバい」と思っていました。ceroがファースト・アルバムを出したのが27歳の頃なんですけど「大学を卒業して25歳くらいまでに結果を出したい」というある種のボーダーをもう過ぎていたので。手がかりは掴んでいるけど結果は出せていないと焦っていました。

 

—そこでチャンスを掴むためにとった行動などありましたか?

父親に相談しました。かなりのレコードコレクターだったし、音楽的な影響もすごく受けてきましたから。「デモテープを寄越せ」というので言われた通り渡しました。父はかたっぱしからそれを知り合いに送りつけたんです。それが回り回ってムーンライダーズの鈴木慶一さんの耳に届いて、気に入ってくださったんですね。慶一さんが「ためしにレコーディングしてみよう」と言ってくれて。今思えばプロデュース、という堅苦しい感じではなく、僕たちに遊び場を提供してくれたような、それをニコニコ見守ってくれているような感じでした。そこで作った音源がその後に続く大きなきっかけになったので、発端となった父には本当に感謝しています。

 

—まさに世代がつながっていく感じですね。でもそれができたのはceroの音楽性に歴史観があるからこそだと思います。

言われてみればそうかもしれませんね。当時からceroのライブにはかなり上の世代の人も多かったので(笑)

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■ミュージシャンとして成功した今もバーで働き続ける理由

 

—髙城さんはミュージシャンであると同時に阿佐ヶ谷のバーRojiのスタッフでもあるわけですが、Rojiで働きはじめたのは何故なのでしょうか?

Rojiは僕が大学2〜3年のときに母親と父親が始めたお店なんです。母は昔に三鷹でたこ焼き屋をやっていたこともあるんですけど、その後は仕事をコロコロ変えていて。でも「自分の店を持ちたい」というビジョンは常に持ち続けていたんです。そこで偶然良い物件を見つけて、見切り発車でRojiをオープンさせ、手伝ってくれと言われたので僕がバイトをするようになりました。その後は就職せずバンドをやりながらRojiでバイトを続けました。

 

—その後、音楽を仕事にできるようになったわけですが、Rojiをやめようとは思わなかったのでしょうか?

まず、自分の収入源のメインがゆっくりと音楽のほうに移行していったので、やめ時が無かったというのもあります(笑)でも、一昨年に母親が病気で亡くなったときに色々考えたんです。

Rojiをオープンさせるにあたり、母はきっと若い子たちが来てワイワイやってる光景を想像していたと思うんです。そして、僕の友だちや、さらに若い人たちが来て音楽や色んな話をしているっていう、まさに想像通りの場所が出来上がったんですね。そんな場所を、母が亡くなったからといって無くしてしまうのはあまりにもふがいない。これは残さなくちゃいけない遺産の一つだと思ったんです。それにラッキーなことに、僕はある方面には顔が知られていて、看板にもなりうる力を持てています。だから週に一度でも出て力になることができれば。それが今もお店に立つ一番大きな理由ですね。

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—そんな理由があったんですね…。

でも、お店に立っていると息抜きができるというのも大きいですけどね。子どもが生まれてから、なかなか友だちと遊ぶ時間が取れなくなったんですけど、週に一度ここにいれば、自然と友だちが来てくれるので(笑)

 

—ceroにはお店のことを歌った「Roji」という曲もありますよね。

そうなんですよ。でもRojiについての曲を書いたのは僕だけじゃなく、王舟くんというミュージシャンも常連で、彼もアルバムの1曲目に「Roji」という曲を入れていているんです。お客さん側から見たRojiと、カウンターの中から見たRojiという2曲があって、おもしろいんですよ。

 

—音楽とお店、それぞれがフィードバックし合っているんですね。

すごい口角泡を飛ばして音楽談義をしてるわけでもなくて、くだらない話をしてるだけなんですけど、その雰囲気自体が与えている影響はあるだろうなと思いますね。

 

—Rojiに立っているときとceroでの活動について、仕事としての心構えの違いはありますか?

お店に立っているときは心構えも何もなくて自然体ですね。オーダーとか忘れますし、本当に使えないバイトって感じだと思います(笑)「ライブでMCをしているときと変わらないですね」とお客さんにも言われます。僕は自分のことをオーラのないミュージシャンだと思うんですけど、でもそういう人って今までそんなにいなかっただろうし、こうした自然なスタンスでお店に立ちながら、バンドでは大きめの会場でやったりしてたら、それってバランス感覚として面白いと思うんです。だからこのやり方はこのままキープしていきたいですね。

 

—仕事論としてもうひとつ。音楽が実際に仕事になったことで、音楽に対する向き合い方など変わったことはありますか?

ラッキーなことに「もっとこうしよう」と外部から言われたり、何かしらの制約を課せられたりしたことがほぼ無いんです。好きなようにやらせてもらっているので、仕事になったことで何かが変わってしまったなと思ったことは全然ないですね。

 

■ceroとRojiを両立させることで実現できる「理想」

 

—ceroの一員としてもRojiのスタッフとしても、今後こうしていきたいという展望はありますか?

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音楽の方面ではもっと攻めて行きたいですね。それと8月にcero主宰の「Traffic」というイベントを開くのですが、ここではベテランかつ人気バンドであるクレイジーケンバンドを呼びつつ、一方で若手として注目されるOMSBやランタンパレードが出演するような、そんなバランス感覚をみんなにプレゼンしたいです。メジャー/インディーといった関係を取っ払って、ひとつ一貫したものをやっている人たちがいるっていうことを、ceroを軸として聴いてもらえたらいいなと。

 

—お父さんが未来をつなげてくれたように、高城さんもつなげたいという明確な思いがあるんですね。

僕らも30代になり、ceroは中堅バンド枠の最初に入りかかったところだと思うんです。下の世代のバンドも充実してきているし、先輩のバンドとも前より少し距離が近づいてきていて、両者をつなげるような位置づけにいるので、そういうコミュニケーションができればと考えています。

そして、その一方で僕がRojiに立ち続けることで、クレイジーケンバンドが好きな人、OMSBが好きな人、ランタンパレードが好きな人たちがここに一同に介し、情報交換をするようなことが起きるかもしれない。そういうことをできる立場の人は少ないので、それができたら良いなと。僕も「そんな場所があったらいいな」と若い頃に考えていたのですが、ceroとRojiを続けることでそういう場所が作れるんじゃないかと、そう思っています。

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髙城晶平

2004年に結成されたceroのボーカル/ギター/フルート担当。これまでceroとして3枚のアルバムをリリースし、いずれの作品も高評価を獲得。8/11(木・祝)には新木場STUDIO COASTで主催イベント「Traffic」を開催予定。ソロ活動ほか、FM802「MUSIC FREAKS」のレギュラーDJ、雑誌『POPEYE』での連載など、その活動は多岐にわたる。

 <WRITING>照沼健太 <PHOTO>廣田達也

【人を縫い、服を縫う】脳外科医とデザイナーを両立するDrまあやさんが、「二足のわらじ」を履く理由

レインボーカラーの髪、そしてカラフルでド派手なファッション。街ゆく人が振り返るほどインパクト抜群のこの女性、医師とデザイナーの二足のわらじを履くDrまあやさんだ。

脳神経外科医としてハードワークをこなすかたわら、個展や展示会などを開催するなどデザイナーとして制作活動にも注力している。昨年、テレビ番組『家、ついて行ってイイですか?』に取材されたのを機に、その個性と異色の経歴に注目が集まり、最近ではテレビや雑誌にもひっぱりだこだ。

そもそもなぜ、医師とデザイナーという、両極とも思える仕事を両立させているのだろうか?そして今後はどんなキャリアを目指しているのか?ご本人を直撃した。

 

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脳神経外科専門医・デザイナー

Drまあや(折居麻綾)さん

2000年岩手医科大学医学部卒業後、慶応大学外科学教室脳神経外科に入局し、脳神経外科医として勤務。2009年、日本外国語専門学校海外芸術大学留学科に入学し、翌年から約2年間、英・ロンドンのセントラル・セント・マーチン芸術大学で学ぶ。帰国後、2013年に「Drまあやデザイン研究所」を設立。現在は、医師の仕事と制作活動を両立し、活動を続けている。6月2日(水)~6日(月)原宿にて「カラフルデブ展示会即売会」を開催。7月には初の著書『カラフルデブを生きる』(セブン&アイ出版)を発売予定。

道で倒れている人を救えるようになりたいと、脳神経外科を選択

 まあやさんの作る服はとてもカラフルで、奇抜だ。

 カラーグルーガンで作った色とりどりの渦巻きをつなぎ合わせたドレス、おもちゃや人形がびっしり付けられたベスト、よく見ると花柄がCT画像でできているワンピース…などなど。

「日本人はファッションに対して保守的な人が多いですが、ファッションってもっと自由で楽しいものだと思うんです。だから、自己表現の一環として、そしてアートの一部として、私が面白いと思うファッションを創作し、提案しています。…このドレス生地のCT画像、私の腹部のものなんですよ。昔から花柄が苦手で、それを克服する意味で『自分のCT画像で花柄を作ったら面白いのでは?』と考えました。これは75キロの時のCT画像だから、まだ脂肪が少ないですね。今は大台(100キロ)に乗せたから記念に撮り直し、デザインし直してみようかな、なんて思っているんです(笑)」

 まあやさんのヘアスタイルは、レインボーカラーのショートボブ。脳神経外科医として患者に相対する時は、黒のウィッグを被る。手術の時は、患者の麻酔が効いてからウィッグを取るそうだ。「でも、最近テレビに出るようになったから、患者さんにバレ始めちゃって…『先生、それカツラだったんだ?』なんて言われるんです」と笑う。

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▲作品はカラフルで斬新。これらのドレスはカラーグルーガンでできている PHOTO:Akiko Michishita

 

 医師であり、デザイナーという現在のまあやさんを形作ったのは、子どもの頃の環境にあった。

 祖父が開業医、両親がアーティストという環境で育ったまあやさん。子どもの頃からアートやデザインに親しみ、「この道に進みたい」と思ったこともあったという。しかし、祖母から医師になることを強く勧められたうえ、両親を見ていて「芸術で食べていくのは難しい」と感じたことから、将来の目標を「医師」に置いた。

「医師は専門職。手に職を付けることで、ずっと一人でも食べていけるだろうなと思いました。それに、医師になってからほかの道を目指すことはできても、ほかの道から医師になるのは難しい。まずは医師になってから別の道を考えたっていい、という思いもありましたね」

 そして大学1年の時に、「道で倒れている人を医師として救える人になりたい」と、より専門性の高い「脳外科医」を選択する。
「道で倒れるということは、原因は心臓か脳にある可能性が高い。せっかく医師を目指すなら、そのどちらかを救ってあげられるようになりたいと思ったんです」

 大学卒業後、慶應大学の脳神経外科に入局。研修医を経て、脳外科の専門医として資格を取得し、晴れて脳神経外科の専門医として独り立ちし、活躍するようになった。一方で、学会のポスター作成を請け負うなど、趣味の範囲で「デザイン好き」としての手腕も発揮していたという。

落ち込んでいた時にたまたま見たデザイン学校の広告で、「二足のわらじ」を決意

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 そして、医師としてのキャリアが10年になろうとしていた2008年、転機が訪れる。

 脳外科医として働きながら大学院で研究をしていた時のこと。研究発表前の履修審査の席で、教授に内容についてめちゃくちゃに怒られたという。「今からテーマは替えられないし、これからどうしよう…」と落ち込み、あてもなく山手線に乗って何周もぐるぐると回り続けていたが、ふと顔を上げると、ある車内広告が目に止まった。

「日本外国語専門学校の、海外芸術大学留学科のオープンキャンパス広告でした。その時、学生時代に憧れていた、世界三大ファッション大学の一つであるセントラル・セント・マーチン芸術大学で学びたい!という思いが、心の底から急激に湧いて出たんです。そこからは行動が早かったですね。週末にはオープンキャンパスに参加し、学校の人をつかまえてセント・マーチンへ留学できる可能性を質問。『頑張れば可能だ』と言われ、入学を即決しました」

 10年間、医師として活動する中で、「この仕事は意外に時間を自由にコントロールできる仕事だ」と気づいたことも、一歩踏み出す勇気になった。フリーランスやパートタイムで効率的に働く医師も多く、「やりようによっては掛け持ちも可能だ」と考えたという。

 初めの1年間は、昼は専門学校でデザインの基礎を学び、夜と週末は医師として当直もこなす生活を続けた。その後、念願の英・ロンドンにあるセントラル・セント・マーチン芸術大学に留学。 卒業間際、ビザのトラブルで緊急帰国を余儀なくされる不運に見舞われたが、約2年間ファッション・デザインの勉強に没頭し続けた。

医師の仕事を休んでまでロンドンに行ったのは、『やるなら仕事にしたい』と思ったから。趣味でデザインを続けるならばわざわざ学ぶ意味はないし、一から本気で学ぼうという覚悟も持てない。『デザインで稼げるようになる』という腹決めをして、気合を入れて臨みましたね」

 帰国後は医師の仕事に復帰する一方で、デザイナーとしての事務所「Drまあやデザイン研究所」を設立。「二足のわらじ」生活の環境を整えた。

片方の仕事に行き詰まったら、もう片方に没頭することでストレス解消できる

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▲小物もカラフル! PHOTO:Akiko Michishita

 

 そして現在。都内のクリニックで院長を務めながら、月に3回は北海道・釧路の病院でパートタイム医師として働いている。脳神経外科医としてのスキルアップのため、学会に出席したり、文献を読んだりする時間も重要だ。

 医師として多忙を極める日々だが、創作の手は緩めていない。家に帰れば、メスやハサミといった手術器具をグルーガンに持ち替え、洋服や小物を作り続ける。

「よく『両立するのは大変では?』と言われますね。確かに時間はいくらあっても足りないですが、そういうストレスは全くありません。どんなに好きな仕事であっても、壁にぶつかったり、もう嫌だ!と思う瞬間ってありますよね。そんな時、もう一方の仕事がいいストレス解消になるんです。医師の仕事は緊張を強いられることが多いので、もう疲れたー!と爆発したくなる瞬間がある。そんな時にデザインに没頭すると、肩の力がどんどん抜けていき、気持ちが楽になるんです。逆に創作に行き詰まった時は、医師の仕事がいい視点の切り替えになる。180度異なる分野だからこそ、いい相乗効果を発揮しているんでしょうね。以前に比べ、仕事のやりがい、喜びが倍増していると実感しています」

医師もデザイナーもどちらも大切。50:50のバランスで両立し続けたい

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 今後のキャリアについて、まあやさんは「医師とデザイナー50:50という今のバランスを維持しながら、体力の許す限り突き進みたい」と話す。

「脳神経外科医のスペシャリストとして、一人でも多くの患者を救いたいという思いはとても強いです。脳は、人間の心と体、あらゆる全てのことにかかわる重要な臓器。目の前の患者の頭の中で今、何が起きているのかを冷静にジャッジし、開頭するのは、脳外科医にのみ許されている行為です。これからも勉強を続け、知識をアップデートして、あらゆる症例に対応し続けたいですね」

「そしてデザイナーとしても、自分の感性をどんどん表現していきたい。今はまだ、ほとんど売り上げが立っていませんが、今年は展示会を積極的に行い、販売に力を入れていく予定。そしてゆくゆくは、世界に向けて発信していきたいですね。特に、道半ばで帰国することになったロンドンに進出するのが夢。ロンドンの人って、歴史を重んじる人が多いせいか、意外と頭が固いんです。脳外科医がデザインを学ぶなんておかしいと言われたし、私の自由な作風に関してもなかなか認めてもらえなかった。そういう人たちをギャフンと言わせるような服を作って乗り込みたいですね。私、意外と反骨精神が強いんです(笑)」

 2つの仕事の相乗効果をうまく発揮しながら、二足のわらじを両立しているまあやさんは「スーパービジネスパーソン」のように見えるが、もちろんたまには行き詰まり、落ち込むこともあるのだとか。そんな時は、「何をすれば、動き出せるようになるか」を考えるという。

職場や創作の場にいると息詰まるならば、どこならやる気になれるのかを考えます。カフェみたいな開放的な場所でおいしいケーキを食べればやる気になれるのか、文豪みたいにホテルにこもればいいのか、とか。『あと1時間だけならば頑張れるかも?』など、時間を区切ってみることも多いですね。結果的に1時間も頑張れなくて、結局ぐうたらしちゃうことも多いんですけれど(笑)、そうこうしているうちに、少しずつ一歩踏み出せる元気が湧いてくるようになりますよ」

 

EDIT&WRITING:伊藤理子 PHOTO:平山諭  

 

【『世界から猫が消えたなら』著者 川村元気氏の仕事論】「あれっ」という違和感。それがアイディアの芽になる

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川村元気(かわむら・げんき)

1979年、横浜生まれ。 上智大学文学部新聞学科卒業後、映画プロデューサーとして『電車男』『告白』『悪人』『モテキ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『バクマン。』などの映画を製作。2011年には優れた映画製作者に贈られる「藤本賞」を史上最年少で受賞。12年には初小説『世界から猫が消えたなら』を発表。120万部突破の大ベストセラーとなり、佐藤健、宮﨑あおい出演で映画化、2016年5月14日より東宝系で公開。近著にハリウッドの巨匠たちとの空想企画会議を収録した『超企画会議』(KADOKAWA刊)などがある。

 

映画『告白』『悪人』『モテキ』など、
数多くのヒット作を手掛ける
映画プロデューサーである。
また、初めて書いた小説
『世界から猫が消えたなら』が
120万部を突破するなど、
多方面で活躍。なぜ川村氏は、
ヒットを出し続けられるのか?

 

過去の方程式は使えない。だから今の“違和感”を大事にする

よく「ヒットの方程式は何ですか」と聞かれるのですが、そんなものはないんです。大衆の心は魚影みたいなもので、すぐにどこかに行ってしまう。そのため過去の方程式は全く使えないんです。ただ、自分も魚影の一部なんです。自分も大衆の一人。だから自分が「あれっ」と思ったこと、つまり“違和感”をすごく大事にしています。

 

例えば、2016年4月に『理系に学ぶ。』という本を出したんですが、それもきっかけは「あれっ」と思ったことから。ある日、自伝映画の主人公がいつのまにか理系ばかりになっていることに気づいたんです。映画の主人公といったら音楽家や作家、政治家が定番だったのに、いつの間にか、マーク・ザッカーバーグやホーキング博士、スティーブ・ジョブズといった理系に変わっていた。映画の主人公になるということは、世界の主人公でもあるということだと僕は思っています。なので、これは理系の時代がくるぞと。

 

実はそう感じたのは2年前なんです。まだそのころは、人工知能もこんなに騒がれてなかったし、大学は理系だけでいい、なんて議論をされることもなかった。でも、“自分の中に生まれた違和感は掘り下げてみる”というモットーに従って、理系の人たちとの対話を始めたんです。2年間にわたるその連載がまとまって本になったのが、2016年の4月。そしたらちょうど世の中で「理系ブーム」が起こっていたんです。

 

アンテナを張るのではなくて、自分の心の声を聞く

これまでの映画や小説づくりも、きっかけは何でもない気づきなんです。「あれっ、なんか変だ」というくらいのもの。でもその「あれっ」を大事にして掘り下げて、映画なり本なり何かの形にしていくと、ちょうどそれができ上がる2年後くらいに、世の中に大きなムーブメントが起きることがある。自分が「あれっ」と思うことは、自分以外の多くの人たちもなんとなく感じていて、それが世の中のムーブメントとして出てくるまでに2年ほど時間がかかるということかなと思っています。

 

狙ったところに針を落とすのではなくて、自分が「あれっ」と思ったことを大事に育てていく、という感じでしょうか。多くの人がなんとなく感じていて、でも口に出していないことを大きな声ではっきりと言う。そしてみんなに「わたしもそう思っていた!」と賛同してもらうのが僕のつくりかたなんです。

 

だから、どんな企画も自分が観たい映画、読みたい本、知りたいことから始めます。ただし、みんなが言い出してからでは遅いと思っています。すこしだけ早く、「あれっ」に気付くことが大事なのではと。

 

よく“アンテナを張る”という言い方がされていますが、アンテナを張るといろんなことがたくさん入ってきてしまって、何がいい情報なのかわからなくなってしまうことも多い気がします。大事なのは何を知っているか、ではなくて何が大事なのかに気付くことだと思っているので、僕は自分が見て感じたことを何より大事にしています。

 

もちろん、“誰もやっていないこと”という視点も大事です。目新しいものや誰もやっていないことにヒットの芽があることは確かですから。でもそれは大コケする可能性も多分に秘めています。だから、少なくとも「自分だけは引っかかった」という確証が欲しい。もし、「あれっ」と思ったことをやり始めたのに誰も集まってこなかったら、もう一度、自分に問います。「本当に引っかかっていたことなのか」と。もう、何度でもしつこく検証します。それで違っていたら道を変えればいい。自分が間違っていると思えば、柔軟に道を変えることも大事だと思うんです。

 

 

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自分の中の違和感を見つけることが
大事だと川村氏は語る。
しかし、多忙な生活の中で、
心の変化を見逃さないことは、
とても難しいこと。
どうやって感性を磨いているのか。

 

苦手なものにあえて首を突っ込む。そうしないと生き残れないと思っている

僕は自分に課していることがあるんです。それは“苦手なものに首を突っ込む”こと。2014年に『仕事。』という宮崎駿さんや、坂本龍一さん、糸井重里さんらとの仕事の対話集を出したんですが、それもそのひとつ。僕はそれまでいわゆる“巨匠”と呼ばれる方たちとほとんど接点がなく、多くが同年代との仕事だったんです。そういう巨匠たちは自分とは別、と距離を置いてしまう方法もある。でも、どんな巨匠にも自分と同じ30代のころもあったわけで、きっと挫折とか恥ずかしい経験とか、自分と共通することもあるんじゃないかと。それで、おっかなびっくり訪ねていって「30代のときに何をしていたんですか?」と話をうかがいました。そうしたら、たくさんの発見があって。

 

今回上梓した『理系に学ぶ。』も同じです。僕は昔から数学や物理、化学や生物といった理系に関するものが苦手だったんです。ひどい理系コンプレックスがあって、逃げるように私立文系大学に進みました。それで映画会社に入社して、映画を作って小説を書いて。もう理系とは離れて暮らせると思って内心ホッとしていた(笑)。でも、時代の流れは違っていたんです。スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツと、いつの間にか、時代を動かしているのは理系になっていた。ならば、苦手な理系に話を聞きに行こうと。そしたら、やっぱり発見がとても多かったんです。

 

例えば人工知能に関して。メディア・アーティストの真鍋大度さんや、東京大学大学院准教授の松尾豊先生に話を聞きに行ったんですが、目からうろこの連続でした。僕の勝手なイメージで、理系は人間を見ていないと思っていたんですが、実際は真逆。人工知能をどんどん掘り下げていくと、「人間って何だ?」ということに行き着くんです。コンピュータに何かをさせようという学問ではなく、「人間にしかできないことは何だろう?」ということを探る仕事だともいえると思いました。僕ら文系より理系人のほうが人間を深く見ている。つまり、“人間がこれから欲しいもの、これから不要になるものがわかっている”ということです。ジョブズがアップルを作ったように、そういう人たちから大ヒットが出るのは当然だなと。

 

理系が世界を作っていく時代で、どうやって文系は生き残っていけばいいのかって、自分も含め多くの人が考えることだと思いますけど、やっぱり「学ぶ」ことしかないと思う。苦手だからと遠巻きに見ていないで、話を聞きに行くしかない。そうすれば苦手だった人とも共通点が必ず見い出せる。そうしたら「今度は一緒に仕事してみましょう」となる。いきなり世界が広がりますよね。違うジャンルの人と仕事をすれば、自分の強みを見い出すこともできます。生き残るヒントをもらえるんです。

 

苦手なものに飛び込んでみるのは、確かに最初は緊張します。人は未知のものに対して最も恐怖を感じますから。でも、やってみると意外と楽しんですよ。僕は今でもバックパッカーとして貧乏旅行をしているんですが、見知らぬ僻地の町に行くと最初はストレスを感じます。でも、2、3日もすると町の様子がわかってきます。ここには美味しいレストランがある、ここは危険なエリアだと。それってすごく面白いんですよ。わからないものがわかってくる過程がすごく好きなんです。人間としての能力が開花していくというか。だから、苦手なものや知らないものにあえて飛び込んでみる。これはずっと続けていきたいと思っています。

 

感じることがあったら、何かを手放してもやってみたほうがいいと思っています

映画『世界から猫が消えたなら』の原作となった小説のテーマを思いついたのも、些細な出来事からなんです。ある日携帯を落としてしまって、やることもなくなり外を観ていたら大きな虹が出ていた。皆が気付いているかなと思い、電車の中を見回したら、僕以外の乗客全員が携帯を見つめていて虹に気付いていなかった。そのときに「何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」という小説のテーマを思いついたんです。

 

やっぱり何か感じることがあったら、何かを手放してもやってみたほうがいいと思っています。安定とか安全を求めることは誰にとっても自然なことだと思います。ただ、安定とか安全は、結果的に危険な道にいくことがある。安定や安全を求め過ぎて何も手放さないと、どんどん行き詰った道にはまっていってしまうと思います。

 

人が感動するときって、予定外に何かが起こったときですよね。思いがけず起こったことに、人は泣いたり笑ったりするわけです。だから心の中に予定外が起きる余地があったほうがいい。あと半分くらいで死んでしまう人生なんだから、なるべく感動する道を選んだほうが幸せだと僕は思っています。

 

それに、そもそも絶対に安全な場所なんてないんだから、知らない場所に行っていろんな人に会って、そこから学んで、少しでも自分が生き残れる力を身につけておきたいと思っているんです。だから、苦手意識を乗り越えてでも巨匠の方や理系の人に会いに行って、いろいろ教えてもらうんです。

 

僕は「こうしなくてはならない」というこだわりを極力持たないように心がけています。あるとすれば、“変わり続けること”にこだわっている。時代も変わるし、置かれる環境も変わる。自分の考えも変わる。だから、自分の気持ちに敏感になって、正直に行動することが大事だと思っています。

 

もし、仕事がつまらないと思っているなら、今、興味を持っていることを始めてみるといいのかもしれません。興味があることなら勉強も苦じゃなくなる。僕も理系の人たちに会いに行く前、いろいろ調べることが多くて大変だったんですけど、興味を持っていることだったので、どんなに忙しくてもできたんです。

 

実際に働いてわかったのは、好きなことを仕事にするべきだ、ということ

僕は10代のころから年間300本観るくらい映画が好きだったんです。就職活動しているときに、「本当に好きなことは仕事にしないほうがいい」という先輩がいて、映画と離れたところで仕事をしたほうがいいのかなと思ったこともあったんですけど、今、実際に働いてみて思うのは、「仕事は絶対、好きなことをしたほうがいい」ということ。よく、「入社当時は劇場のチケットもぎりの仕事をしてたそうですが、辛くなかったのですか」と聞かれますが、そんなの全然、苦労じゃないです。好きな映画の仕事をしているんですから。むしろ、映画に関わっていなかったらどうなってただろうと思います。起きている時間のほとんど仕事をしているわけですから、好きじゃない仕事をするのは、かなりつらかっただろうと思います。

 

こういう話をすると、「でも、好きなことで食べていくのって難しいですよね」という話になると思うんですが、そのために必要なのが、やっぱり“勉強する”ってことだと思っています。「理系に学ぶ。」で対談したマサチューセッツ工科大学メディアラボ所長の伊藤穣一さんが言っていたのですが「コンフォートゾーンから出て、新しいジャンルで学ぶこと」がとても重要だと思っています。自分の知っている世界で楽しくやっているだけではクオリティは上がりません。そもそも新しいことをしなくちゃ、面白くないですしね。

 

【information】

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『理系に学ぶ。』川村元気著
120万部のベストセラー小説『世界から猫が消えたなら』の著者で、映画プロデューサーの川村元気氏が、解剖学者の養老孟司氏、「ニコニコ動画」の生みの親・川上量生氏、メディア・アーティストの真鍋大度氏、任天堂の宮本茂氏、外科医の天野篤氏など時代をけん引する理系のトップランナー15人に、「これからの時代の生き残り方」「ヒットの仕掛け方」「ビジネススキルの磨き方」「テクノロジーの可能性」などを聞いた。理系はなぜヒットを次々と飛ばすことができるのか。理系が時代を作っている時代に文系の強みとは何か。そして文系と理系が組んで何ができるのか。ヒットメーカー同士の対談だけに、普段のインタビューではなかなか聞けない本音トークが多く、非常に斬新でためになる内容となっている。時代に取り残されないために読んでおきたい一冊。ダイヤモンド社刊

 ※リクナビNEXT 2016年5月11日「プロ論」記事より転載

EDIT/WRITING高嶋ちほ子 PHOTO栗原克己

【20代の不格好経験】起業して早々に400着ものワイシャツの在庫を抱え、電話営業や行商に奔走~ライフスタイルアクセント株式会社CEO山田敏夫さん

今、ビジネスシーンで輝いている20代、30代のリーダーたち。そんな彼らにも、大きな失敗をして苦しんだり、壁にぶつかってもがいたりした経験があり、それらを乗り越えたからこそ、今のキャリアがあるのです。この連載記事は、そんな「失敗談」をリレー形式でご紹介。どんな失敗経験が、どのような糧になったのか、インタビューします。

リレー第18回: ライフスタイルアクセント株式会社CEO 山田敏夫さん

株式会社FiNC 代表取締役社長 CEO溝口勇児さんよりご紹介)

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(プロフィール)
1982年熊本県生まれ。実家は老舗婦人服店。大学在学中、フランスへ留学しグッチ・パリ店で勤務。2006年ソフトバンク・ヒューマンキャピタルに入社し、営業マネージャーとして活躍した後、東京ガールズコレクションの公式通販サイトを運営する「fashionwalker.com」の事業開発担当者に。2012年、メイドインジャパンの工場直結型ファッションブランド「Factelier(ファクトリエ)」を手掛けるライフスタイルアクセントを設立。

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▲メイドインジャパンの工場直結型ファッションブランド「Factelier(ファクトリエ)」。3%になってしまったメイドインジャパンの国産比率と激減する工場を守るべく新しい流通構造を展開。全国500以上のアパレル工場に山田さん自ら訪問、世界で戦える高い技術や誇りを持っていると判断した世界レベルのアパレル工場と直接提携し、商品開発・販売を行っている。

日本から世界的なブランドを作りたい!との情熱に任せて起業。しかし…

 2012年に起業しライフスタイルアクセント(株)を設立。メイドインジャパンの工場直結型ファッションブランド「Factelier(ファクトリエ)」を立ち上げました。

 大学在学中にフランスに留学し、グッチのパリ店でアルバイトをしていたのですが、そこで「日本には本物のブランドがない」と言われました。もちろん、日本のいろいろなブランド名を挙げてみたのですが、実際は海外で生産していたり、モノづくりではなくマーケティングで洋服を作っていたりして、全て否定されてしまったのです。その時、「自分の手で日本から世界一流ブランドを生み出したい」と思ったのが、ファクトリエが生まれたきっかけです。

 実は日本のアパレル工場の縫製技術は非常に高く、世界トップブランドからも認められているにもかかわらず、安価な東南アジアの工場との価格競争に巻き込まれ、採算は大幅に悪化。結果的に1990年には約50%あったアパレルの国産比率は、現在3%台にまで低下しています。ブランドができるまで100年はかかると思っていますが、それを待たずにアパレル工場が絶滅しようとしている。日本に帰ってきてその事実に気付き、まずは「日本の工場の現状を変えなくてはいけない。そのためにはどうすることがベストか」と考えた結果、立ち上がったのが今のファクトリエブランドであり、会社です。

 当時29歳、6年も社会人として営業や事業開発などさまざまな仕事を経験した後での起業でした。しかし、強い課題意識を持ち、心から「やりたい」と思っていることをやろうとすると、人ってまるで赤ちゃんみたいにピュアに、思いだけで突っ走ってしまうものなのですね…。今考えると無謀すぎる起業だったし、起業当初はたった一人だったので、失敗の連続でした。

 高い技術を持ったアパレル工場と直接提携するため、初めは工場をひたすら回りました。国内のアパレル工場はどこも苦境にあえいでいる状況。きっとみんな大歓迎してくれて、「ぜひ提携したい!」と言ってくれると思っていました。しかし現実は、うさんくさい奴が来たとばかりに、門前払いの連続。

 …そりゃそうですよね。何の実績もない若いお兄ちゃんが、いきなり「提携させてくれ」「ブランドを作ろう」なんて言っても、信用できるわけがない。そもそも、資本金はたった50万円、工場から見れば「おカネ、ちゃんと払えるの?」ですよね(苦笑)。でも当時は、「利益率の高い新しい販売先ができるのに、なぜみんな引き受けてくれないんだろう?」と不思議に思っていました。

ECで400着の在庫がはけない…段ボールの隙間で眠る日々

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 何十軒もの工場を回り、ようやく1の工場と提携。手始めにワイシャツを400着作っていただき、「Factelier」ブランドとしてECで1着1万円で売り出すこととなりました。型や縫い合わせなど、細部にまでこだわり抜いた、メイドインジャパンブランドの初商品の誕生です。でも、この時も「そんなこと、普通しないでしょ!」ということをやってしまうんです。

 男性用のワイシャツは、首周りと裄丈により、大きく9サイズに分けられますが、400着を9で割り、全てのサイズを同じ枚数分、作ってしまったんです。つまり、Mサイズに相当する標準的なサイズと、3Lのようなビッグサイズを同じ枚数作ってしまった。…当然、Mサイズばかり売れ、ビッグサイズは残るに決まっていますよね。でも当時は、そんな知識もなく、単純に均等割りで作ってしまいました。

 クラウドファンディングなどを使って100着ほどは売れたのですが、案の定、売れたのはMサイズばかり。300もの在庫を抱えて途方にくれました。当時住んでいた駒沢の6畳一間のアパートは段ボールで埋まり、その隙間で寝ていましたね。ちなみに段ボールを家に入れるために、ベッドは捨てました。

 このままでは、工場にお金を支払う期日に間に合わない。そのとき、改めて市場をしっかりとリサーチしてみたんです。その結果…ワイシャツを購入する際、5000円以下のワイシャツを選ぶ人は全体の約85%。ワイシャツは多くの人にとって消耗品であることがわかりました。そして、残り約15%の人は、高品質や安心感を求めて百貨店で購入する。つまり、私はたった一人で、百貨店の市場をリプレイスしようとしていたんです。

 でも、もう後には引けない。支払期限は迫っています。頭をひねり、企業に行商に行くことを思いつきました。片っ端から電話をして、「無料でワイシャツの着こなし講座をさせてください」とお願いしたところ、約300社中、十数社にOKをいただくことができたんです。そしてその場で100着以上のワイシャツを買っていただくことができました。

 体格のいい参加者も多く、ビッグサイズのシャツも売れて、工場への支払い分を確保することができました。そして、在庫が減るごとに、少しずつ部屋の窓から光が差し込むようになってきたことが、本当に嬉しかったですね。

 それでも残った在庫は、地元・熊本の友人たちが売ったり買ったりしてくれました。知り合いのメガネ店や子供服店、蒲鉾屋までも、店先を使って売ってくれて…。本当に当時の私は赤ちゃん起業家。ヨチヨチと危なっかしく歩く私に、たくさんの人が手を差し伸べ、支えてくれました。

強い想いが周りを巻き込み、ゼロからでも経済圏を作り出せる

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「Factelier(ファクトリエ)」では、納品価格は工場に決めていただき、その価格の倍の値段でECで販売しています。これは消費者の方々にもすべてオープンにしています。

 通常、工場への発注額は販売価格の約2割でした。つまり、1着の商品価格が10000円ならば、2000円ですべてのコストを賄わなくてはなりません。

 近年では、安価な海外工場との価格競争が激化し、値引き要請が強くなっており、発注価格がどんどん下がっていました。工場の利益は減る一方ですし場合によっては赤字になることもあります。これでは工場は、疲弊していくばかりです。工場にしっかり利益を確保していただき、最高の技術を提供いただきたくて、このビジネスモデルを考えました。

 利益を確保できるだけではなく、工場に価格を決めていただくことで市場を見る目を養っていただけますし、コストの制限がないので、持ちうる最高の技術を余すとこなく使っていただける。市場の声に直接触れることでモチベーションが上がったという声も多く聞いています。モチベーションが上がれば、工場で働く人が辞めなくなる。つまり継続性が生まれるんです。そして高い技術に裏打ちされた、着心地がよく長く愛用できる製品が利益も生みながら適正価格で提供できる…みんなにとって幸せな、いいサイクルが確立できていると確信しています。

 ヨチヨキ歩きだった私が今日まで走り続けてこられたのは、「このサイクルを作りたい」という強い情熱で、周りを巻き込むことができたからだと実感しています。

 世の中への影響度は、企業規模や上場しているか否かなどではなく、理念や志、想いの強さで決まると思っています。起業当初の私の行動は非常識な面も多々ありましたが、「工場、消費者にとっていいサイクルを築き、日本から世界一流ブランドを生み出したい」という想いを伝え続けることで、工場の方々に理解していただき、消費者の皆様から応援していただき、賛同者が1人集まり、2人集まり…を繰り返して、全くのゼロから小さな「経済圏」を作ることができました。

自分の足で人生を歩むって素晴らしい。想いがあるなら、一歩踏み出してほしい

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 もし何かやりたいことができたならば、思い立ったが吉日です。お金がなくてもアイディアが確立していなくても、強い想いがあれば誰かが手を差し伸べてくれます。日本には我々が思っている以上に優しい人がたくさんいるんです。失敗しても、壁にぶつかっても、想いがあればきっと乗り越えられます。

 私の場合は、何も考えずに突っ走って起業して、壁の乗り越え方もすごく不器用だったと思います。300社に電話を掛けまくるとか、メガネ屋にワイシャツを置いてもらうだなんて、思い切り不器用ですよね。新橋で道行く会社員に「ワイシャツ買いませんか?」と声をかけたことだってあるんですよ(笑)。考えてみればもっとスマートな乗り越え方は、いくらでもあったはず。

 だから、普通の人ならば大丈夫ですよ(笑)。普通に準備すれば、少なくとも私よりはすんなり軌道に乗せられるはずです。

 でも、今振り返ると、起業当初たった1人で工場を回ったり、ワイシャツを売り歩いていたりした期間って、自分にとって大切な時間だったなと心底思います。在庫を抱え、お金もなく、土日はアルバイトをしながらしのいでいましたが、ものづくりの現場にどっぷり浸ることができた。人に決められた人生ではなく、自分の足で人生を歩んでいるという実感がありました。

 やりたいことに没頭して、毎日があっという間に過ぎていくって、とても貴重だし素敵なことですよ。もしやりたいことに出会ったら躊躇せず、ぜひ一歩踏み出してみてほしいですね。

EDIT&WRITING:伊藤理子 PHOTO:平山諭

>>【あわせて読みたい】「20代の不格好経験」シリーズ

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【堀江愛利×奥田浩美】シリコンバレーで注目の女性起業家アクセラレーターが語る、日本の女性リーダーに必要なストラテジー

UberやAirbnbなどの注目スタートアップを生み出し、FintechやIoT、ヘルスケアなど、さまざまな最新ビジネスやテクノロジーを世に送り出してきたシリコンバレー。しかし、そのイノベーションの聖地・シリコンバレーにおいても、いまだビジネスやワークスタイルは男性中心なのだという。

そのシリコンバレーで「Women’s Startup Lab」を創業し、女性起業家を育成する堀江愛利さんと、海外の最新技術や数々のスタートアップ企業に携わってきた奥田浩美さんに、女性リーダーが抱える課題や対策について語っていただいた。

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シリコンバレーで女性起業家養成所を立ち上げた背景

奥田:まずは、堀江さんがなぜシリコンバレーで女性起業家のアクセラレーター(短期養成所)「Women’s Startup Lab」を立ち上げたのかをお聞かせください。

堀江:私がスタートアップをやっていた頃に、私自身がもがいていたからですね。シリコンバレーは若い男性が多く、女性起業家の数がとても少ないんです。最初はそこに特別な問題意識はなかったんですけども、彼らは女性の出すアイデアに対しては、全然のってこない。「3時間しか寝ていないよ」みたいな会話が挨拶代わりになっていて、「そこまで捧げてこそスタートアップだ」みたいな勘違いばかり。ただでさえ女性が起業するには大変な環境なのに、子どもを育てながらでの起業は三重苦のようだと感じていたんですよね。

シリコンバレーはスピードが勝負だと言われますが、子育てしながらではキツいこともある。3か月でサービスを作り上げるスタートアップだけじゃなく、サポートを受けて6カ月かかってでも有益なサービスを世に出すやり方があってもいいじゃないかと。成功手段、達成モデルは一つじゃなくていいと思うんです。

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Women’s Startup Lab 代表取締役 堀江愛利さん
1997年にカリフォルニア州立大を卒業後、IBMでのグローバルマーケティングの仕事を皮切りに、シリコンバレーのハイテク企業でマーケティングを手掛ける。2013年にWomen’s Startup Labを創業。最近では、CNN「10人のビジョナリーウーマン」や雑誌マリクレール「男女比を変える20人の女性」に選ばれた。(全米にて注目する女性40名の一人として“40over40 Award”に選ばれ、またSXSW Interactiveでは Featured Speaker 2015として活躍し、またSXSW V2V 2014 ではキーノートスピーカーを務め、ウォールストリートジャーナルやフォーチュン、ビジネスウィークなど多くの有力メディアに取り上げられている。

奥田:成果の出し方はみんな同じじゃなくていい、という意見にはとても共感できます。女性の起業家をサポートしたいと考えた、具体的なきっかけは何ですか?

堀江:スタンフォードで20年ぐらい看護師をしていた女性が考えたスタートアップのアイデアが最も印象的な出来事でしたね。看護師と医師、介護福祉士は、薬の量やその日の症状など、あらゆる情報をすべてシェアし合い、患者にもきちんとコミュニケーションをとらなくてはいけないのですが、実はうまくできていない。一番つらいのは患者さんだけど、介護をするほうも負担が大きい。それをプラットフォーム化して、最適化しようというのが彼女のアイデアでした。

私は、これは絶対必要なプラットフォームだと思いました。ところがそのアイデアに対して、誰もサポートしたいと言わなかったんです。彼女がすごくがっかりして帰る後ろ姿を見て、「ああ、こんなんじゃ新しい社会は生まれない」と勝手に責任を感じたんですね。そこで、女性に特化した起業家養成所「Women's Startup Lab」を始めたんです。

奥田:私は自分で起業したウィズグループを含め、これまで25年間、シリコンバレーの最新技術やビジネスを日本で広める大規模カンファレンスの企画や運営を行ってきました。でも自分の両親が田舎で介護を受ける状態になったときに、そうした先端技術の恩恵を全く受けていないことに気づいたんです。お年寄り、女性や子供に必要なものが、シリコンバレーでは作られていないと。ITって本当はこうした人たちが幸せになるために生まれたものじゃないの?という疑問を抱きました。そこで2年前に、社会課題を解決するためのITの製品を生み出すための会社、たからのやまを設立したんです。事業背景としては、堀江さんとすごく似ている気がします。

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▲株式会社ウィズグループ、株式会社たからのやま 代表取締役 奥田浩美さん
MacworldやWindows World、Interop、Google Developer Dayをはじめとする数々のIT系大規模コンファレンスの事務局統括・コンテスト企画などを行う株式会社ウィズグループ創業者。2013年には株式会社たからのやまを設立。2014年より、独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の未踏IT人材発掘・育成事業の審査委員を務め、若い世代の新たなチャレンジを支援している。著書に『人生は見切り発車でうまくいく(総合法令出版)』『会社を辞めないという選択(日経BP社)』『ワクワクすることだけ、やればいい!(PHP研究所)』がある。

堀江:ニーズから始めるというスタイルですね。これを作って売りたいというエンジニアドリブンじゃなくて、“何が必要かという発想”。男性でも必要性から考える人はいると思うのですが、“人が困っていることを解決して人の役に立ちたい”というより、結果として“人に役に立つもの、役に立ちたい”という思いから始めるビジネスの発想が強いように思います。したいことを表に出すより、するのは、女性ならではです。ITですぐ解決できると思われることって、現実社会では紙に書いた餅状態のことが多い。

奥田:シリコンバレーは何でもエコシステムができていて、女性もキラキラした人だけが報道されてくるじゃないですか。でも今日お話していると、みんな迷っていることや、飛び越えられないところって一緒なんですね。

堀江:日本もアメリカも一緒だと思うんですけど、やっぱり成功する人はそれを乗り越えられる力を持っています。でも、能力ではなく、生活レイヤーで悩む女性は多いんですよ。これは女性の問題じゃなくて、社会の問題なんですよね。

奥田:女性だけの問題じゃないというのは、私もいつもそう思っています。

堀江:だから女性の発想やビジネスをサポートすることで、より地域が活性化されたり、女性ならではの価値観や観点で社会を変えたりするのもいいんじゃないかと私は思っていて。

自分のベースを作れば、周りのペースも気にならない

奥田:私は26歳の時に社内起業して子どもを産んだんですけど、周りが結構優しかったんですよね。でも「早く帰っても大丈夫だから」って言われても、自分が思う存分やれないのがつらかった。「君は能力あるんだから、やりたいことをやっていいんだよ」とサポート体制を作ってもらっても、今まではできたことなのに半分しかタスクが終わらないことが、仕事からはずされるより悔しくて。

堀江:そうそう。周りからもういいと言われても、やりたいことはやりたい。ある意味で、ワーカーホリックなんですよね、慢性ワーカホリック。

奥田:一緒です(笑)。そういう女性起業家にはどんなアドバイスをするんですか?

堀江:とにかく無理をするのはやめよう、と言います。頑張ることを美徳とする日本ですが、無理をしても成果につながらないことが多いから。無理をして頑張るのではなく、いかに効率良く動き、成果を確実に1~2個出していくことを考えて見直す必要があると思います。頑張ることで周りに認めてもらいたい気持ちはわかりますが、それをあえて捨ててでも、成果を出すことを考える。

それはすごく難しいことだけど、必要なことだと思っています。また、我慢するんじゃなくて、身を任せる。今できることだけをやって、自分は40%で100点満点だと言ってしまう。その中で本当に大切のものへの時間や情熱を注げるものがみえてくるのではないでしょうか。そうでないと、英語でいう「My life doesn't belong to me」という時期が乗り越えられない。それが嫌ならご主人とストラテジーを練っていくしかない。自分の仲間を作ることが、ストラテジーの大切な一つだと思っています。

奥田:私もそう思います。

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堀江:その中で必要なのは、自分が何をやりたいかというベースを持つこと。ベースがきちんとあれば、あと3年間我慢することも、自分のビジネスを始めたりすることも選択できる。ブログで発信するだけでもいいんですよ。

奥田:企業の中にいてもそうですよね。とにかく少しずつでもアウトプットをしていくことができるかどうか。女性に限らず、企業の中にいると20代、30代とか年齢で区切ってこうならなきゃみたいな思い込みが多すぎるんです。私は年間50回ぐらい地方出張しているのですが、60代から起業した人やこんな人生があるんだって驚かされる人に会う機会が多くあります。ロールモデルを持っていれば自分の生活が変わったところで、何歳だろうと戦略を変えることができる。そうなると、すごく楽だなと。

全部頑張りすぎてはだめ。できることを一つに絞ってみる

奥田:「Women’s Startup Lab」は、女性にどんな起業家支援をされているんですか。

堀江:ラボ自体は起業家としての成果を出すためのものなので、「女性」というトピックでのワークショップは、30分くらいです。何をするかというと、最低限必要なピッチとかストーリーテリング、あとはビジネスモデルのレベニューモデルもそうですね。かなりコンサルティングをして、どんどん締めていく。ぎゅっぎゅと。

あとうちがすごく変わっているのは、リーダーシップのコーチングをつけるんです。エグゼクティブな人たちがもっとパフォーマンスが上がるように、リーダーシップのスキルアップにはかなり注力していますね。

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奥田:日本人女性で、それを受けている人はいますか?

堀江:いますよ。受講した皆さんによく言われるのが、「ビジネスのことをするために行ったんだけど、自分の人生が変わった」ということ。かなり厳しく叩かれて、気づかなかったところで自信がついたとか、気づきがあったと言ってくれます。自分のしたいことがクリアになったことで、シェイプアップできたという感じですかね。目先のビジネスのノウハウなどはいくらでも情報が集まる時代なので、それを学ぶことより、起業家としてのマインドセットの特訓することで、より大きな自信につながり、今まで思いも寄らなかった行動と目標、また、自分にしか発想できない方法までが見えてくるようになります。それが結果としてビジネスの成功への加速化につながっています。

奥田:女性って、実はなかなか追い込まれないですからね。何かしら誰かが守ってくれることが多い。

堀江:やることが多すぎて、自分のチョイスがなされないまま頑張っちゃう人も多いですね。女性をすごくよく表している話があるんです。洗濯機を発明した人たちは女性の家事を少しでも楽にしたくて、洗濯機を作って市場に出したと。それで女性が楽になるのかなと思ったら、便利になったからもっと洗濯をし始めちゃったんです。女性は手を抜かずクオリティをどんどん追求しちゃうから、すべてにおいて頑張っちゃう。どこに無駄があるかっていう観点があまりないんですよ。

奥田:私なら、機械に家事を全部任せます。食器洗い機があれば食器洗いはしないし、洗濯機があれば洗濯しない。機械に置き換わってもらって全然OK(笑)。

堀江:楽になる追求って必要ですよね。何か一つだけ選んで頑張る。全部頑張るんじゃなくって、金曜日の朝ご飯だけは頑張るとか。私はあまり料理を作らないんですけど、週末の朝ご飯だけは作ると決めて、頑張ってます。ホットケーキぐらいなんですけど。

奥田:そうか、全部に頑張るのが女性のいいところでもあり。

堀江:全部頑張るのは無駄だからやめなさいと。家事育児をしっかりしてプライドを持ってやる人もいれば、仕事で自らの“ギフト(※持って生まれた特別なスキル)”を大いに発揮し活躍し、自分らしく生きる人生を大切にして頑張っている人もいます。褒められることだけが大切ではないんじゃないかと。もっと自分を大切にしても、世にも役立つワガママもおすすめですね。

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奥田:実は女性がマネジメントに向いてないと言われることに、女性の思い込みがあると思っていて。そもそも事業やビジネスってどんどん新しいものが出てくるし、組織も新しくなっていく。女性は男性が作ったピラミッドの上を登るんじゃなくて、新たな環境や分野にガンガン入っていけばいいんじゃないかと。

「何をすべき」ではなく、「何がしたいか」が大事

奥田:シリコンバレーと日本で女性のリーダータイプの差というか、違いってありますか。こういう点で悩むとか、こういうところでつまずくとか。

堀江:向こうはすごくハングリーですね。伸びる女性というのは、頑張るだけじゃなくて、底力の明るさを持っています。明るさと楽天的というポジティブさを持ちつつ、自分の力も信じていて、絶対できると思っている。「やろう」というより、「できるんだ」という気持ち。奥田さんもあるでしょ?

奥田:できるというか、信じて進んでいるときは、できるまでやめないって思ってて(笑)。でも私、今愛利さんが言ったような「絶対できる」と思っている女性が、すごく少ないと思うんですよ、日本は。

堀江:そうそう。成功するって意味の「できる」じゃなくて、続けられる、アクションできるっていうほうで。私も17歳でアメリカ行ったときに、「What you like?」とか、「What you won't?」って聞かれてました。「何をしたいか?」じゃなくて、「何をするべきか?」で日本人らしくトレーニングされてきたから、自分のアイデンティティがどこにあるかもわかんないような状態だったんですね。

その「べき」を取り除くことが必要なんです。自分が何がしたいのか、例えば小学生のときに消防士になりたいと思っていたとしたら、何に魅かれて消防士になりたいと思ったか。人を救うのがかっこいいとか、人に喜んでもらいたいっていう理由だったら、もっとその気持ちを大切にする。自分のアイデンティティを探すというのは、すごい重要で、それをしていないと、大人になってから、自分のしたいことは何かと言われても出てこない。大学とかでも自分がしたいことなんか聞かれたこともないし、ひたすら成績だけで評価される。

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一番シンプルなやり方は、毎日何か「自分のしたいことを必ず一つやる」。それが正しいとか、成功につながらないとか一切考えない。いいとか悪いとかじゃなくて、何で私はこういう生き方をしているんだろうって考えて、自分が喜ぶことをすればいい。自分の気持ちを大切にするために、自分を聞き始める訓練から日本人はやらないと。自分で作っていくというのは、自分がないとビジネスは築けないわけですよね。

「なぜ、あなたはそれを始めたんですか?」という問いに、「いや、このテクノロジーが、何となく格好よかったから始めた」と答えてしまう。いや、そうじゃなくて、「何でそのテクノロジーをあなたは始めたんですか?」と。アメリカ人は自分のパッションに聞くけど、日本人は答えられないことが多い。

奥田:日本はビジネスを作るときに、既にこの分野が流行っているとか、ここに今お金が動いているとか、そういう理由でビジネスを始める人が多い気がします。前例主義というか。そこは変えていきたいですね。

自分を大切にすることが、何かの結果につながる

奥田:堀江さんがすごいのは、女性のキャリア形成支援をこれだけやっているのに、女性の枠を超えた姿があること。その取り組みによって、人間全体がレベルアップすると思います。男性だけの土俵にやっと女性が乗ることができましたみたいな。それを日本の女性がやっていることがすごく誇らしいなと思いながら、お話を伺っていました。

堀江:ありがとうございます。先ほども言いましたが、自分を大切にするということをもっと自分に問いかけてほしい。自分を大切にするということは、どういったかたちで社会に貢献するかということでもあります。それがビジネスで表現される人もいれば、子育てというかたちで表現される人もいます。いずれにしても素晴らしいことだと思います。

1.自分をセルフコントロールするというコンセプトで毎日問いかけをする
2.ビジョンを持って周りを巻き込む
3.それが何かの結果になる

ぜひ、この3ステップで、自分の方向性を作っていってください。

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取材・文:馬場美由紀 写真:延原優樹