リクナビNEXTジャーナル

キャリア・ビジネスの情報満載【リクナビNEXTジャーナル】

海上保安庁・隊員たちの仕事レポート――第三管区巡視艇・航空機展示総合訓練

5月20、21日、東京湾羽田沖で第三管区巡視艇・航空機展示総合訓練が行われた。第三管区海上保安本部は、茨城県から静岡県にかけての沿岸海域をはじめ、伊豆諸島、小笠原諸島、日本最南端の「沖ノ鳥島」や日本最東端の「南鳥島」を含む広大な太平洋海域を担当している。今回の展示総合訓練では、第三管区海上保安本部を中心に北海道や福岡県など各地から計15の巡視船艇、4機の航空機、特殊救難隊などが参加。海難救助・海上防災、テロ容疑船捕捉・制圧などの各種訓練の模様を披露した。

なかなかお目にかかれない海上保安庁の仕事の様子について、写真を中心にレポートする。

f:id:k_kushida:20170619155921j:plain

 ▲視閲船の1つ、第三管区横浜海上保安部の巡視船いずにも大勢の市民が乗り込んだ

f:id:k_kushida:20170619155945j:plain

▲やしまに敬礼する茨城海上保安部の巡視船あかぎの乗組員

訓練では、巡視船やしま(第七管区福岡)、巡視船つがる(第一管区函館)、巡視船いず(第三管区横浜)が視閲船となった。巡視船やしまでは本訓練の総合指揮官である第三管区海上保安本部長の陣頭指揮のもと、長官及び次長が視閲官として、また石井国土交通大臣、根本国土交通大臣政務官が来賓として乗船。2日間で公募で選ばれた約4300人の市民に、巡視船の編隊航行訓練、航空機の編隊飛行訓練、海難救助訓練、海上防災訓練、テロ容疑船捕捉、巡視船の高速機動連携訓練など多岐にわたる訓練成果を披露した。

海難救助訓練

f:id:k_kushida:20170616121210j:plain

▲航行中のタンカーが爆発炎上

f:id:k_kushida:20170619160605j:plain

▲海に投げ出された乗組員が発煙筒で救助を要請

f:id:k_kushida:20170616121422j:plain
f:id:k_kushida:20170616121447j:plain

▲ヘリコプター「はいたか」から隊員が降下して無事救助

海上防災訓練

f:id:k_kushida:20170616121545j:plain
f:id:k_kushida:20170616121615j:plain

▲タンカーで2回目の爆発が発生し巡視船艇による放水消火が行われた

f:id:k_kushida:20170616121716j:plain

▲「いぬわし」から隊員がタンカーに降下。取り残された乗組員を吊り上げ救助

f:id:k_kushida:20170616121802j:plain

▲いぬわしは巡視船ぶこうに着船。救助者を降ろした後、再び離船

テロ容疑船捕捉と制圧訓練

f:id:k_kushida:20170616121847j:plain

▲巡視艇すがなみといそぎくがテロ容疑船を発見、追跡。警告弾を投てき

f:id:k_kushida:20170616121943j:plain
f:id:k_kushida:20170616122008j:plain

▲巡視艇は正当防衛射撃の後、特殊警備隊隊員がテロ容疑船に移乗、制圧、逮捕した

f:id:k_kushida:20170616122054j:plain

▲視閲官として乗船した中島海上保安庁長官(左)と石井国土交通大臣(右)

f:id:k_kushida:20170616122125j:plain

▲訓練を視閲後、石井国土交通大臣は「この訓練は、練度技術・技量の向上はもともとより、国民の皆様にとって、日頃、直接目にする機会が少ない海上保安業務への理解を深めていただく、よい機会となったものと思います」と述べた

 

f:id:k_kushida:20170616122155j:plain

▲両日合わせて4300人の市民が3隻の巡視船に乗船し、訓練の様子を見学した

今回の訓練を目の当たりにして、海上保安庁の隊員たちの常人離れした肉体と精神、技術には感服するほかなかった。日本の海を守るため、日夜奮闘している彼らのような人たちがいるからこそ、私たちは枕を高くして眠れるということを忘れてはならない。改めてそう思った総合訓練だった。

文・写真:山下久猛

堀潤さん | ファミコンが多様性を認め合うゆるやかな「コミュニティ」を示してくれた

f:id:kensukesuzuki:20170612143655j:plain

さまざまなシーンで活躍しているビジネスパーソンや著名人に、青春時代に親しんだTVゲームの思い出をうかがっていく本連載「思い出のファミコン - The Human Side -」。今回ご登場いただくのは、報道番組のキャスターをはじめ、ジャーナリストとしてメディアを横断して発信を続けている堀 潤 (@8bit_HORIJUN) さん。市民投稿型ニュースサイト『8bitNews』のネーミング由来にもなるなど、現在の活動のルーツはファミコンと深い関わりがあるようだ――

親からのクリスマスプレゼント
ファミコンと思って開けたら…コレジャナイやつが!

――ファミコンとの出会いについてきかせてください。

任天堂の『ゲーム&ウォッチ』っていうのがファミコンの前に流行りましたよね。僕があれを親戚の家で夢中になってやり続けているのを親が見ていたから、「この子にゲームなんて与えたらダメ」というスタンスだったんです。
ところがうちは転勤族で、転校が続いて僕は寂しがり屋だったし、病弱だったこともあって、その境遇を汲んでくれたのか、「友だちづくりのためにもファミコンを買ってあげるか」という空気に変わったんです。
そしてたしか10歳のクリスマスの朝、目が覚めたら枕元に箱が置いてあったんです。「これは……!」と思って箱を開けてみたら、なんと中身が『セガのSC-3000』だったんですよ(笑)。

f:id:kensukesuzuki:20170612143820j:plain

――当時のあるあるですね!

本体と一緒にゲームは『ロードランナー』を買ってくれていました。「うわ、ロードランナーじゃん!」と思って、本体にカートリッジを差してスイッチをオンしたら……。ファミコンの『ロードランナー』はカラフルで可愛らしいドットのキャラクターですが、セガの『ロードランナー』は違ったんです。なんか白い影のようなキャラで、業務用みたいでデザイン性がまったくなし。

さすがに「これじゃない!」って文句を言ったんですけど、父親は「いや、セガはみんなが持ってないものだし、これでプログラミングだってできるから、すごいものなんだよ」って言われて。
「そっか……」って思いながら遊んでいたんですけど、周りの友人とはカセットの互換性がないから、友だちを家に呼んで一緒にセガで遊んでも、みんなの反応が鈍い……「何これ?」みたいな(笑)。ただちょっとだけ気持ちの片隅に、「俺は違うものをやってるぞ」っていう優越感はありましたね。たしかその後3年くらいはファミコンを買ってもらえなくて、セガで凌いだんです。

親の目を盗んで深夜の「ファミ活」

――思い出深いエピソードについてきかせてください。

f:id:kensukesuzuki:20170612143901j:plain
ようやくファミコンを買ってもらえて、だんだんカセットも増えてきて、親が最初に懸念していたように、僕はどっぷりのめり込み、ファミコン中毒少年になりました。そしてついに親から「ファミコン制限令」が制定されてしまったんです。だから、うちでは学校から帰って、宿題をやった後から晩御飯までの1時間程度だけ遊べる、みたいなルールになったんです。

わずか1時間じゃ満足できない僕は、ファミコンをやるために深夜に起きて……午前3時半くらいかな?親が寝静まった頃、二階から一階へ忍び足で降り、テレビに静か~にファミコンを接続して遊んでましたね(苦笑)。プレイ中もずっと無音で。朝6時には、父親が起きてくるので、その前にはそっとしまって、二階の自室に戻るっていうプレイスタイルでした。

――親バレしなかったんですか?

それがね、やっぱりバレてたんですよ。部屋って人の体温で温まるんです。ファミコン本体も熱を発するし。親もきっとなんか気配を感じてたと思うんですね。ただ、「やってないよね?」って言われると、「やってないよ」ってゴマかしてました(笑)。

――思い出深いゲームはありますか?

f:id:kensukesuzuki:20170612144003j:plain

夜中によく遊んでいた『銀河の三人』ですね。深夜にこっそりプレーする後ろめたさが、あのゲームの神秘的な世界観にも合いまって、ハマりました。RPGなので、音声がなくても文字面でゲーム展開がわかるところも都合がよかったんです。

――マニアックなセレクトですね。

そうですね。僕の友だちにも「『銀河の三人』ってかっこいいゲームがあるんだ!」って紹介していたんですけど、僕の熱量と世界観は伝えきれませんでした……。でも、『銀河の三人』は登場するメカがカッコいいし、敵のキャラクターデザインもすごくよかった。今このゲームをVRで再現したらめちゃくちゃ面白いんじゃないかな。

8bit機のファミコンが改めて教えてくれたこと

――堀さんが主宰の『8bitNews』は、ファミコンからインスパイアされたと伺いました。

ファミコンブームが去ってバブル経済が弾けた後、世の中はリストラが始まって、自殺者が増えて、その後はどんどん不況の波で格差が広がっていき、日本は不幸なグレー色……。僕はまさに就職氷河期世代なのですが、社会に対しての不信感がすごく強かったんです。そんななか、分断社会であるとか、個人主義みたいなものが台頭していって、さらに東日本大震災が起きて……。

そんなどん底からようやく最近、コミュニティの再構築とか、個人じゃなくて弱くてもいい結びつきをシェアして、お互いに力を差し出しあって生きていこう、っていう風潮になってきました。僕の周りで、そういうことを声に出して行動している人たちを見てみたら、みんな1970年代から80年代半ばの生まれ、つまりファミコン世代だとふと気づいたんです。

f:id:kensukesuzuki:20170612144111j:plain

僕たちの子ども時代の明るい話題といえば、テレビの前にファミコンっていう8bit機があって、みんなが集まってワイワイやり合うっていう団らん。テレビの前で子どもたちが熱狂して、ファミコンを通じたコミュニティを自然と作っていたことを思い出しました。

8bitはコンピュータの基本単位ですから、それぞれが集まって発信するようなメディアが生まれれば面白いな、と。今までのメディアといえば、いわゆるマスコミ、そういうイメージで語られがちだったものが、一人ひとりが発信できるようになればいい。それは主婦の方でもいい、おじいちゃんでもいい、会社員でもいい、誰もが発信していい。「これが私の直面しているニュースなんです」っていうのを結集させるメディアを作りたかった。そういう思いで『8bitNews』っていう名のメディアを立ち上げたんです。

今の世の中を見渡してみると、ようやく社会の中核を担う、自分たちの裁量で社会に発言力・発信力を持つようになった人たちが、みんな実はファミコンに親しんできた世代なんですよね。コミュニティの分断から個人へ、個人が再びコミュニティへ、みたいに戻っていくときに、ひとつのスローガンが、基本単位である8bit。そういうイメージです。

――ファミコンが現在の社会に示唆を与えてくれているようですね。

f:id:kensukesuzuki:20170612144152j:plain

ファミコンが実はすごく今っぽいなと思うのが、プラットフォーム的な思想で成り立っているところ。つまり、任天堂が自前主義で独占的にゲームソフトを作るのではなくて、たくさんのメーカーがいろんなジャンルのゲームを作っていたところです。今でいうスマホのアプリと一緒ですよね。

あとファミコンを取り巻く人間関係には、まさにダイバーシティの原点があったと思うんです。どんなゲームが好きか、という多様性をゆるやかに認め合えることができた。「君はスポーツゲームが好きなんだね」って否定はしないし、「ぼくはロールプレイングゲームが好きなんだ、いいよひとりで遊べる」って。それってすごく重要ですよね。ファミコンっていうプラットフォームが共通言語で、みんなが共存していたわけなんですから。

「こうあるべきだ」という価値観を一方的に押し付けると、あっというまに破綻するけど、「あなたはそれでいいです」となると共存できる。ファミコンってやっぱりそうだったなって思います。「シューティングゲームが好きなのか、アクションゲームが好きなのか、それは別にいいと思うよ」っていう。強制もさせられないわけですし、自分の趣味嗜好は尊重される。そして、それがじつは感性を育むものだってことも。違いはすごくわかるけど、それぞれがそこで得意な能力を発揮すれば良い。ファミコンは多様性の象徴でしたね。

f:id:kensukesuzuki:20170612144213j:plain

取材・文:深田洋介
1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。
http://famicom.memorial/

撮影・編集:鈴木健介

40歳までに、まず「“投資”すべきもの」とは?―『お金が貯まるのは、どっち?』著者・菅井敏之氏インタビュー

f:id:rikunabinext:20170619130051j:plain

すがい・としゆき

1960年、山形生まれ。 三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。個人・法人取引、およびプロジェクトファイナンスを担当する。42歳で不動産投資をはじめ、4年後には家賃収入が7000万円に。48歳で銀行を退職し、セミリタイア。2012年、田園調布にカフェ「SUGER COFFEE」をオープン。著書『お金が貯まるのは、どっち!?』(アスコム刊)はシリーズ累計45万部のベストセラー。

 

f:id:rikunabinext:20170619143201j:plain

銀行員時代の経験から、
お金を増やす25の法則をまとめた
『お金が貯まるのは、どっち!?』が
ベストセラーになった。
「銀行員は天職だった」と語る菅井氏だが、
48歳で退職し、
専業大家としての道を歩み始めた。
その理由とは。

 

「相手の困っていることを見つけて解決する」で成績トップ

銀行には25年いました。ずっと営業です。もともと銀行と旅行代理店と、2つ内定をもらったんですよ。自分のキャラからいえば旅行代理店のほうが向いていた。真面目で堅物な銀行員のイメージは自分にはかけらもありません。でもなんとなく旅行代理店にいったらワンオブゼムになるだろうと思ったんです。逆に銀行のほうが、僕みたいに明るくてフットワークが軽くて、プライドがないからドブ板だってやれる人間の持ち味が生きるんじゃないかと。それだけなんです。

入行してからずっと、営業成績はダントツ。営業の仕事って要はサービス業です。コミュニケーション能力を発揮して、相手が困っていることを引き出し、解決してあげること。これがものすごく自分に合っていたんですね。向いていないと思った仕事が、実は天職だった、というわけです。人の可能性というものはわからないものですね。

子どものころから父親に繰り返し聞かされた話があります。父が小学校3年生の時、椅子の上に立って張り紙をしている先生を見つけて、椅子を支えてあげたんですって。紙には「進取の気性」と書いてあった。父が尋ねると先生は「お前がいま先生にしてくれたことが、進取の気性っていうんだ」と教えてくれたそうです。本来の意味とは違いますよね。本来は「新しいことを取り入れる」という意味ですから。でも父は「進取の気性とは、自立的に動いて行動すること」だと理解した。先生に褒められたことが嬉しかったんでしょうね。子どもや孫にこればっかり話すんです。人が困っていることを先に見つけて、言われる前に手を出せ、それが世の中で一番大事なことだぞ、と。それで子どものころから、玄関の掃除をしたり雪かきをしたり。率先してやっていました。

会社に入ってからも同じなんですよ。人が困っているのを見つけて手を出す。僕のお客さんは会社経営者。社長の頭のなかを占めている困りごとの半分は、経営のことですよね。最初は「営業順調そうですね」なんて褒めるんです。すると「そんなことないんだよ」「ええ?そうなんですか」「去年より悪いよ」。本音が出てくる。そこで販路の開拓をしてあげたりすると、大喜びされて。「銀行さんがそんなことしてくれるの?」となるわけです。後継が心配だといえば、息子さんのお嫁さんを紹介する。何度お見合いをセッティングしたことか(笑)

とにかく相手のことを一番に考える。普通の銀行員は真面目だから、自分が困っていることをいきなり口にしちゃうんです。「今月はノルマ2000万円なんです、社長お願いします」。相手の都合お構いなし、むしろ自分の困っていることを相手に解決してもらおうと思っている。それ、違うじゃないですか。

父親を一人にしておけなくて、48歳で銀行を退職

ずっと楽しく仕事して、42歳で支店長に。あらためて富裕層のお客さんを回る機会がありました。貯金も土地もある資産家、でも毎月入ってくるお金は年金しかないという人は表情が暗いんです。お金があってもこわくて取り崩せない。お金があるのに使えない。ちっともうらやましくありませんでした。ところが、預金は大したことなくても、年金のほかに30万円、40万円と新しいお金が入ってくる人は明るい。菅井さん今度歌舞伎行きましょう、ゴルフ行きましょうって、いつも元気。

そこでわかったのは、人の幸せはストックじゃない、新しいお金が毎月入ってくるかどうかで決まるんだ、ということです。それを可能にする資産には大きく3種類あります。1つ、国債や投資信託などの分配金、2つ、アパートや駐車場などの収入つきの不動産、そして3つ目が、自分のビジネス力。この3つが「金の卵を産むニワトリ」です。

僕は、それが欲しいと思いました。銀行は確かに天職でしたけど、50歳までには経済的にも時間的にも自由になりたかった。というのは、長男なのに東京で就職しちゃって、父親を山形に残していたんですね。僕が50になったら父は85になる。これは1人にしておけない。東京と山形を行ったり来たりできる経済基盤を持たないと、親の死に目にもあえないし、僕はずっと後悔すると思ったんです。

幸い、42歳の段階で4000万円のお金が貯まっていました。29歳のときは貯金ゼロだったんですよ。僕の20代はバブルの時代で、貯金している奴なんて誰もいなかった。でもある日、こんな2人を担当しました。40歳で年収1300万円、でも貯金ゼロのAさんと、やはり40歳で年収500万円、だけど金融資産は2000万円のBさん。このままでは僕もAさんのようになると思うと背筋が寒くなって、悔い改めたんです。それからは徹底的にストイックに無駄遣いしないでお金を貯めました。土日にゴルフにいく代わりに、子供のミニバスケのコーチになって。大声が出せてストレス解消、ママさんたちからはヒーロー扱い(笑)。会社の、どうしても参加しなくてはならない飲み会も二次会に行かなくなりました。

この4000万円を種銭にアパート経営に乗り出したわけです。それまでお金を貸すほうでしたから、どうやったらお金が借りられるかもわかる。2年のうちに6棟のアパートを買って、家賃収入が7000万円を超えたところで銀行をやめました。

 

f:id:rikunabinext:20170619143636j:plain

不動産投資家、作家、
カフェオーナーと数々の顔を持つ。
最近では、自らの経験をもとにした
『京都かけだし信金マンの事件簿』
(アスコム刊)
という小説も上梓。
菅井氏のように経済的に自立し、将来の不安から解放された
「豊かな人生」を歩むには、どうすればいいのか。

投資するなら、株やFXよりも「まず自分」

宣言通り、僕は50歳で経済的・時間的な自由を手に入れました。だけどそれまではとにかく本業を徹底的にやった。相手の困りごとを見つけて答えを出す。そのたびに自分の引き出しが増えていきました。スキル、人脈、問題解決能力、ぜんぶ本業で磨いたものです。誰もがアパートを買えるわけじゃないし、種銭があるわけでもない。あるのは自分そのもの。つまり若いうちは、3種類の「金の卵を産むニワトリ」のうち、ビジネス力を膨らませておくべきです。そのためにはやっぱり「仕事を一生懸命やる」こと。120%のリソースを突っ込んで、周りから抜きん出るぐらいのビジネス力を身につけるんです。

 

70歳になっても毎月30万稼げるビジネス力のほうが、株やFXよりよほど価値がある。それは若いうちじゃないと身につけられないものです。だから力を出し惜しみしている場合じゃない。120%突っ込む。結果を出せば大きな仕事を任される。また120%突っ込む。その繰り返しでどんどん引き出しが増えていきますよ。給料をもらいながらビジネス力を高められるなら、こんなにいいことはない。

結果、お金も貯まっていきます。給料のうちの2割は強制的に貯蓄してください。使ったあとに余ったお金を貯めようとしても、貯まるわけがない。まず貯蓄して、残ったお金で暮らすんです。ざっくりでいいから家計簿もつける。皆さん、自分のお金に責任を持っているという意味で、社長と同じなんです。社長だったら会計を知っているのは当然のことですよね。収支を把握していない会社はつぶれてしまいます。これは個人でも同じなんですよ。

銀行員時代と変わらない「世話焼きおじさん」として生きる

セミリタイアした次の年に、父が亡くなりました。最後は集中治療室に一週間付き添って、親の死に目にあうという願いを叶えることができました。ところが、いざ願いが叶って見ると、もぬけの殻になっちゃって。専業大家も、最初の半年は楽しかったけど、だんだん飽きてきました。誰からも相談されない、電話もかかってこない。これは辛いですよ。セミリタイアなんて、憧れを持つものじゃありません。

それで自分はどういう時が幸せなんだろうって、思い返してみたんですね。そしたら、相談ごとだった。人の困りごとを聞いて解決してあげて喜んでもらったときが何より嬉しい。よく考えれば、父も世話好きオヤジでした。村の人がやってくると、茶の間で相談に乗るわけですよ。「なんにもお返しするものがなくって、気持ちだけ」なんて、大根をもらったりしてね。幸せってこういうことだと思いました。少なくとも僕は、そういう相談の時間を持つことが幸せなんだと。

最初は、みんなが集まれる大人向けのネットカフェにしようかと思ったんですが、人の勧めで自家焙煎の喫茶店にしました。コーヒーなんて全然知らなかったんですけど、茶の間の父の姿が思い浮かんで、ピンときた。困ったのは、客が来ないこと。乗降客3万人以上の駅の近くで、かつ同業のないところを探したんですが、オープン半年でカフェができて、目の前真っ暗(笑)。お客も全然来なくて。作家として一作目の『お金が貯まるのは、どっち?』を書いたのも、お店をPRする意味がありました。でも内容は、世のニーズに合っていた。資産家になりたいと思ったら銀行からお金を借りる技術、リテラシーを身につける必要がある、そんなこと親も学校も教えてくれないじゃないですか。でも僕は元銀行員、お金を貸す側の理屈を知っている。それをたくさんの人に教えたいと思って本にしたのが『お金が貯まるのは、どっち!?』。40万部売れました。

場所が少し変わっただけで、銀行員のころからやっていることは全く変わりません。困っている人を助ける。特に、自分では気づかないポテンシャルを見つけてあげて、その人の顔が一瞬輝くのを見るのが生きがいなんです。理髪店の人が人の頭の形を見て「俺ならこう切るのに」と思うのと一緒で、その人の強みとか、お金を貸せるポイントを探すのが癖になってるんです。つまり「いいとこ探し」。銀行でも審査の人間は「こんなリスクがあるから貸せない」ってダメ出しばかりするんだけど、営業はそうじゃなくて、その人の強みを見るんです。この人は自営業者だけど3期連続黒字で優良顧客から安定的に売り上げがあるから、そのへんのサラリーマンよりよっぽど安心ですよ、とかね。

人のいいところを発見するのって楽しいですよ。それで今も、毎日4人ぐらい相談に乗って、のべ3万人にはなったでしょうか。究極の世話焼きおじさんですね。

 

『読むだけでお金の増やし方が身につく 京都かけだし信金マンの事件簿』 菅井 敏之著

f:id:rikunabinext:20170619144454j:plain

京都の駆け出し信金マン、和久井健太が、中小企業の側に立って奮闘するも、その裏にはメガバンクの謀略が。

「メガバンクと信用金庫、口座を開くならどっち?」 「お金を貸す側の銀行は、何を考えている?」 「どうやって銀行を利用したらお金持ちになれる?」等、お金の増やし方のエッセンスが凝縮したエンタメビジネス小説。菅井氏が銀行員時代に経験したエピソードが元になっているため、なかなか表に出ない金融業界の裏側も覗ける。(アスコム刊)

 

※リクナビNEXT 2017年6月14日「プロ論」記事より転載

EDIT 高嶋ちほ子 WRITING 東雄介 DESIGN マグスター PHOTO 栗原克己

日本初の“プロ・ゲーマー”ウメハラが語る「勝ち続けるための流儀」

1998年、17歳のときに格闘ゲーム世界大会で世界一となり、現在は日本初のプロ・ゲーマーとして活躍する梅原大吾さん。世界のゲーマーたちの間で、カリスマ的な人気を誇っています。

約20年の間、世界の舞台で勝ち続けてきた梅原さんは、「1日ひとつだけ、強くなる」を心がけ、努力し続けてきたのだとか。昨日より今日、今日より明日…と、ひとつずつでいいので変わり続けること。これが、自身が考える「強さ」への近道だとおっしゃいます。

その過程を振り返り、どのような取り組みを続けてきたのか、どう考え、行動してきたのかを、梅原さんは著書『1日ひとつだけ、強くなる。 世界一プロ・ゲーマーの勝ち続ける64の流儀』で紹介しています。いずれも、ゲームや勝負に対する取り組み方や信条ではありますが、仕事においても参考にでき、応用できるものばかり。

今回は、本書で紹介されている「64の流儀」の中から、ビジネスパーソンにも大いに参考になりそうな2編を抜粋し、内容をご紹介します。

f:id:itorikoitoriko:20170609150633j:plain

1日ひとつだけ、成長をメモする

梅原さんにとってのモチベーションは、成長を実感することによる喜びや楽しさにあるという。この「成長」も「実感」も、できるだけ自力で感じ取ることが大切。自分で成長を実感できていれば、外的な刺激だけに頼ることがなくなるので、成長ペースが安定するのだとか。

成長の実感→モチベーション(+練習)→成果→成長の実感→モチベーション(+練習)→成果…という循環が成長のループであり、梅原さんはこの循環が安定して継続することを第一に考えている。そして、これを意識的、積極的にやることで、より効果が期待できるという。

大会に勝った、試験の順位が良かった、売り上げが上がった、などといった外的評価は、目に見える成果でなければ評価されにくいもの。外からはなかなか見えにくく、評価されにくい「内的な成長」をどれだけ意識できるかで、モチベーションが大きく変わってくる。

梅原さんが実践しているのは、「新しい発見を毎日メモして、成長を確認する」という方法。シンプルに「今日1日を思い返してみて、何か気付いたことはないか」と自分に問いかけ、思いついたことをメモするというシンプルなものだ。

大きなものだけでなく、小さなことで構わない。小さな気付きを見逃さずに意識できるようにすることで、成長に対する感受性を上げることができる。

その際、大切なのは「ハードルを下げる」こと。梅原さんの例を取ると、「1日1個」という成果を自分の中でルール決めしているという。2つ、3つ見つかったとしても、メモに取るのは1つだけ。欲張って2つ、3つとメモすると、1つしか見つからなかった時に挫折感を味わうことになる。

小さな成果は、誰も評価してくれない。だから、自分のやっていることは誰より自分が評価して、たとえわずかでも昨日の自分より前進があるならば、その事実を肯定することを梅原さんは勧めている。

苦手な相手もゲーム感覚で攻略すればいい

f:id:itorikoitoriko:20170609150629j:plain

直接顔を合わせない相手だったり、一度しか会わない相手だったら、何かあっても自然現象だと思って受け流していれば、たいていのことは腹を立てずに済むようになる。しかし、しょっちゅう顔を合わせる相手だと、そう思うことは難しい。例えば職場にいる苦手な上司や同僚など、避けることが現実的ではない環境に嫌な奴がいるのはやり切れないだろう。

こういう場合、梅原さんは苦手な相手に「自分のほうから関わる」ようにしているという。どう対処すれば、こいつはこういう態度を取らなくなるのだろう?一つチャレンジしてみようか!という感じで、ゲームを攻略するような感覚で捉えるのだという。

ゲームだと思えば、苦手な相手に接することに楽しさを感じられたりもする。「相手はゲームの強敵、攻略方法はどこかにある」と信じて、自分の感情を押し殺して愛想良くしてみたり、嫌味を言ってきたら「すみません!」と大声で返事をしてみたり。そうしていると、相手の嫌な態度の一つひとつがチャレンジの対象となり、意味のあるものになるという。

人間関係にゲーム感覚で取り組む…といっても、人間関係を舐めている、ばかにしているというわけではない。むしろ本気で取り組むからこそ、こういった心の余裕が大切になってくるという。

梅原さんは「別に命までは取られない。命を取られない以上は、結局、何事も遊びみたいなもの」という割り切りを持って、物事に臨んでいるという。難易度の高い仕事にしても、ちょっとしたゲーム感覚で攻略方法を考え、「多少スコアが悪くても、命までは取られない」ぐらいの受け取り方で、挑戦してみては?と勧めている。

真剣勝負の現場で得た流儀の数々は、ビジネスの現場でも応用可能

本書ではこのほかにも、梅原さんがゲームの対戦現場などで得た「勝つための流儀」が多数紹介されています。「劣勢になったら、とりあえず一歩引く」「リスクを負わない姿勢が一番のリスクになる」「不向きなことをやると気づきがある」など、ビジネスの現場でもすぐに応用できる内容ばかりです。

梅原さんはあとがきで、「ゲームであっても、強くなるということの先に人間的なふくらみがなければつまらない。結果の世界だからこそ過程を。真剣の中に遊びの感覚を。そして、強さの先に優しさを」と語っておられます。常に真剣勝負を強いられている梅原さんならではの意見に刺激を受けたい方は、手に取ってみてはいかがでしょうか?

 

f:id:itorikoitoriko:20170609150848j:plain
参考書籍:『1日ひとつだけ、強くなる。 世界一プロ・ゲーマーの勝ち続ける64の流儀』/梅原大吾/KADOKAWA

EDIT&WRITING:伊藤理子 

 

アムロに憧れてパイロットを目指した。だけど、ほぼ毎日「あきらめよう」と思っていた…ーーレッドブル・エアレース千葉大会2連覇を達成したパイロット・室屋義秀氏の仕事論(後編)

困難に打ち勝つ秘訣

f:id:k_kushida:20170606095707j:plain

20年以上も無謀といえる夢に挑み続け、着実に近づいている室屋氏。日本国内での認知度の低さ、競技人口の少なさ、コーチ、ロールモデルの不在、乏しい練習環境、資金獲得の困難さなど、エアショーやエアレースのパイロットになることはもちろん、活動を続けて行く上でのハードルはとてつもなく高く、多い。これまで高く分厚い壁が次々と目の前に立ちはだかったにもかかわらず、室屋氏の心が折れなかったのはなぜなのか。なぜこれまで続けることができたのだろうか。

「身も蓋もない答えですが、がむしゃらにやってきただけです(笑)。エアショー、エアレースは日本ではほとんど知られていない、地図のない世界なので、最初にとにかく操縦技術世界一というでっかい目標だけは一点描いて、とにかくそれに向かおう、逆には行かないようにしようというのがスタートでした。でも『操縦技術世界一を目指しています』なんて言っても聞いた人は『へ~』で終わり。『なれるわけないでしょ』って言う人が99%。でもやってみないとわからないといつも思っていました。とはいえ、その夢までどうやってたどり着けばいいのか、ルートもわからないし、階段すらないので、自分で一個ずつ石を積んで階段を作って上ってきたという感じですね。

確かに資金集めに関しては本当に苦労しました。アルバイトを散々やりましたが、機体を購入してからはアルバイトでどうこうなるレベルではないので、資金援助を取り付けようと企画書を書いて企業を訪ね回りました。その数ですか?よく覚えてないですが数千社はくだらないと思います。活動を続けるため文字通り這いずり回ってましたが、日本ではエアショーなんてほとんどの人が知らないわけなので、支援してくれる会社などほとんどなかったですね。

そんな中でも続けてこられた理由としては、ただ好きだったということしかないですね。飛行機を操縦して大空を飛ぶということがたまらなく好きなんですよ。目標に向けて石を積んでいく過程で、たまに少し飛べることもあったので、それが心の支えになりました。自分が本当にやりたいこと、心から好きで楽しいと思えること、実現したい夢がはっきりしていたので、そのためにやれることをやっていくしかないというのがまずあって、その中でところどころ、純粋に楽しいと思う瞬間があったから、これまでやってこられたんだと思います」

毎日あきらめようと思っていた。でも……

f:id:k_kushida:20170606095838j:plain

こう淡々と語る室屋氏だが、確かに好きという気持ちは継続する大きな力になりえるだろう。しかしこれまでの道のりで、普通の人間ならとっくにあきらめているような困難な壁にぶつかりまくっている。室屋氏はこれまで夢をあきらめようと思ったことは一度もないのだろうか。この問いに対して室屋氏から返ってきた答えはまたしても意外なものだった。

あきらめようと思ったことなど、ほとんど毎日のようにありましたよ。そんなに人間って強くないので、頑張れば頑張っただけどうにもならなくなるとつらいし傷つくので。むしろ目標や夢が困難であればあるほど、あきらめるとか途中でやめる方が精神的にずっと楽なんですよね。この世界は食べていけないからとか、これまで日本でこの道のプロになった人がいないからという正当な理由をつけやすい。こう言うと99%の人はそうだよねと納得します。だから行き詰まった時は、もういいや、やめちゃおうってお酒飲んで遊んでました。でもね、そうやって何もかも忘れて2、3日過ごすと忘れちゃうんですよ、つらいことを。そしてもう1回、俺は何をしたいんだっけなと考えると、やっぱりこの道を行きたい、操縦技術世界一を目指したい、じゃあもう1回頑張るか、となるわけです。これまでこれを何千回、何万回と繰り返してきて今に至るというわけです(笑)

こともなげにこう語る室屋氏だが、通常の人間は小さな挫折と復活を何千回、何万回も繰り返すことなどできはしない。「自分には才能がないからがむしゃらに目標に向かって進むしかなかった」とも語るが、愚直に粘り強く、一歩ずつ登っていけることも1つの稀有な才能だろう。

パイロットという仕事の醍醐味

f:id:k_kushida:20170606095953j:plain

▲室屋氏の機体のコクピット。ぎっしりと埋め込まれた計器の上に曲技飛行の科目の飛び方を書いたメモが貼られてあった(5月11日にふくしまスカイパークで開催されたメディアデーにて)

エアショーやエアレースのパイロットとして生計を立てている人は世界でも数えるほどしか存在しない。「空のF1」と呼ばれているレッドブル・エアレースに出場できるのはわずか14人だ。そんな希少な職業の魅力・醍醐味はどのようなところにあるのだろうか。また、パイロットという仕事は室屋氏にとってどういうものなのだろうか。

「宇宙飛行士は宇宙から地球を眺めることで地球の尊さに深く感動し、世界平和を願うと言われていますよね。パイロットはその縮小版かなと。飛行機からは世界全体までは見えないけれど、関東くらいは見渡せます。その風景を見て、自分たち人間ってちっぽけな存在だなと痛感したり、人間の生き方についていろいろと考えさせられるんです。パイロットであることで一般的な人よりは高い視点と広い視野が得られることが1つの醍醐味ですね。エアショーもエアレースも自然相手のスポーツなので、自然から学ぶことが多い仕事です。

僕にとって、飛行機を操縦するということは仕事であると同時に趣味と言っても過言ではありません。先ほどもお話ししましたが、飛行機を操縦することが純粋に楽しいんですよ。何をもって仕事と言うかにもよると思いますが、僕は仕事をお金をもらえるかどうかという観点では捉えていません。僕にとって仕事とは、人生をかけて心からやりたいこと、つまりライフワークです。もちろん生きていく上でお金は必要ですが、お金はその自分のしたいことをするため、目標を達成するために必要なガソリンのようなものというだけであって、お金を稼ぐために仕事をしているわけではない。それが基本的な考え方ですね」

若手ビジネスパーソンへのメッセージ

f:id:k_kushida:20170606100357j:plain

最後に、これまでの人生で得た経験から20~30代のビジネスマンへのメッセージをいただいた。

「仕事やキャリアで悩んでいる人って、自分のしたいことが意外と見えてない人が多いと思うので、まずは自分自身をよく知ることが必要だと思います。時々、これまで両親にどういうふうに育てられてきたか、どういうふうに生きてきたかを振り返ってみる。例えば1年間にあった出来事を5分間で振り返るだけでもかなりいろんなことを思い出すと思います。自分の長所だけを思い出して、その上で何がしたいのかを考えたら少しでも見えてくるものがあるんじゃないでしょうか。その中で今の生活や仕事が本当に自分に合っているか、自分が望んでいることなのかを考えて、違うと思えば変えればいい。自分自身が見えないまま働いていると3年おきくらいに転職を繰り返してしまうことになりかねません。

少しでもチャンスがあるなら、とにかく目の前のことに全力で取り組んでみることも大事ですよね。その姿を見てる人が必ずいて、次のステージに引き上げてくれます。自分が目指す方向性に近いところで頑張っていると、3年くらいで大きなステップが訪れて成長していける。自分が成長したら必ず次の扉が開きます。僕自身の経験からそう思います。自分を知り、目標に向かって地道に努力を積み重ねていってほしいですね」

アジア人初のエアレースワールドチャンピオン誕生なるか――今後のレッドブル・エアレース・チャンピオンシップ、室屋氏のフライトから目が離せない。

f:id:k_kushida:20170606100517j:plain

▲室屋氏は自身の夢の追求だけではなく、2004年にふくしまスカイパークでNPO法人ふくしま飛行協会を設立し、スカイスポーツ教室をはじめ全国各地でエアショーを実施するなど、航空スポーツの安全追求、底辺拡大啓蒙活動にも長年取り組んでいる。こういった点も室屋氏が多くの人から敬愛される理由だ

大会の様子(写真)

f:id:k_kushida:20170606100837j:plain
f:id:k_kushida:20170606101030j:plain
f:id:k_kushida:20170606101002j:plain

≫前編はこちら

文・撮影:山下久猛 撮影:守谷美峰

アムロに憧れてパイロットを目指した。だけど、ほぼ毎日「あきらめよう」と思っていた…ーーレッドブル・エアレース千葉大会2連覇を達成したパイロット・室屋義秀氏の仕事論(前編)

f:id:k_kushida:20170606094545j:plain

世界最高の飛行技術を持つレースパイロットたちが、最高時速370km、最大重力加速度10Gの極限の状況下でタイムを競う究極の三次元モータースポーツ。それがレッドブル・エアレースだ。大空を舞台に操縦技術の正確さ、知力、体力、精神力を競う究極の競技は「空のF1」とも呼ばれている。

この世界最高峰のレースに参加できる選ばれしトップパイロットは世界でわずか14人。その中でただ1人のアジア人が室屋義秀氏(44歳)だ。昨年(2016年)は千葉大会で見事初優勝を果たし、大きな注目を集めた。全8戦で争われる今シーズンでも第2戦のアメリカ・サンディエゴ戦で勝利を手にし、続く6月4日に行われた第3戦の千葉大会でも表彰台の真ん中に立った。今季連続優勝、千葉大会2連覇を達成したわけだが、母国での連続優勝はレッドブル・エアレース史上において過去に1人しか成し遂げていない偉業である。そしてこの勝利で総合ランキングトップに。室屋氏の究極の夢である年間総合チャンピオンが俄然、現実味を帯びてきた。

しかし、日本国内ではエアレースやエアショーの認知度は低く、競技人口も少ないだけに、これまでの道のりは決して平坦なものではないどころか、困難の連続だった。室屋氏は目の前に次々と立ちはだかる分厚く高い壁をどう乗り越えてきたのか。室屋氏を大空へと駆り立てるものとは、無謀とも思える夢を実現するために必要なものとはいったい何なのか。6月4日に開催されたエアレース千葉大会の模様と合わせてレポートする。

f:id:k_kushida:20170606094420j:plain

▲レッドブル・エアレース2017千葉大会で今季2勝目を飾った室屋 義秀 氏

アムロ・レイにあこがれて

まずは室屋氏のこれまでの歩みを振り返ってみよう。室屋氏がパイロットという職業に憧れをもった最初の原点は小学校低学年の時に観た「機動戦士 ガンダム」だった。言わずと知れた、その後のアニメの歴史を変えたロボットアニメの金字塔である。主人公であるアムロ・レイに強烈なシンパシーを感じ、いつか自分もガンダムのパイロットになってこの手で操縦したいと思うようになった。ちょうどそんな時、旅客機の見学会に参加し、コックピットに座ったことで、ガンダムと飛行機が重なり「大空を自由に飛びたい」という思いがふつふつと胸の奥底から湧き上がってきた。かくして室屋少年はパイロットを目指すこととなった。

その夢は年齢を重ねても色褪せることはなかった。1991年、大学に入学するとグライダー部へ入部。18歳から本格的にパイロットの訓練を開始。20歳の時には単身アメリカへ渡り、飛行機操縦免許を取得。その後、アルバイトでお金を貯め、毎年2カ月間、アメリカでの飛行訓練を積み重ねた。同時に国内ではグライダーによる飛行訓練に励み、国内競技会では好成績を収めた。

着実にパイロットとしての経験を積み重ねていった室屋氏にその後の人生を決定づける契機が訪れる。1995年、但馬空港で開催された曲技飛行競技の世界大会「ブライトリング・ワールドカップ」。世界トップクラスのパイロットたちが大空で繰り広げる究極の操縦技術を観た時、全身に大きな衝撃が走った。俺も彼らのようになりたい──「大空を自由に飛びたい」という思いが「飛行機の操縦技術世界一」という確かな夢へと変わった瞬間だった。室屋氏、22歳の時だった。

困難の連続

f:id:k_kushida:20170606094734j:plain

本格的にエアロバティックスパイロットへの道を歩き始めた室屋氏だったが、当時日本では曲技飛行競技大会は開催されておらず、競技人口もほぼいないと言っていいほど少なかった。しかも曲技飛行用の機体を購入するためには莫大な資金がいる。情報も資金も実績もないという完全な手探り状態の中、それでも室屋氏は必死に情報を収集し、 国内でグライダー教官として飛行技術を磨くかたわら日夜アルバイトで資金を稼ぎ、2年でなんとか訓練資金を調達するところまでこぎ着けた。

その後アメリカに飛び、世界有数のエアロバティックス教官に師事し本格的に訓練を開始。その甲斐あって、1997年(24歳)には初の競技会(スポーツマンクラス)や、アドバンスクラス世界選手権に日本代表チームの一員として参戦を果たした。翌年には国内でエアショー活動を開始。2002年(29歳)には本格的に世界レベルでのフライトを目指し、新しい機体の導入とともに競技志向型エアショーチーム「Team deepblues」を旗揚げし活動を開始。しかし、 設立後まもなく資金難に陥り解散の危機に。長く飛べない日々が続いた。

ここまでか……弱気の虫が頭をもたげたことも一度や二度ではなかった。そんな時、奇跡が起こる。リサイクルショップを全国展開していた「株式会社生活創庫」(当時)創業者の堀之内九一郎氏が支援を買って出たのである。これによりチームは解散の危機を免れ、活動を再開することができたのだ。

その後も地道な努力を積み重ねた室屋氏は2008年、アジア人初のレッドブル・エアレース・パイロットに抜擢。そして2016年、ついにレッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ、母国大会という大舞台で初優勝を果たす。22歳の時に目指した「操縦技術世界一」という夢を見事叶えた瞬間だった。

「25年かけてようやく目標を達成できたわけなのでうれしかったですね。この優勝で今までチーム全員で頑張ってきたことが間違いではなかったこということが証明できたので少し気分が楽になりました

千葉大会で今季2連続優勝、2連覇達成

f:id:k_kushida:20170606095342j:plain

そして2017年シーズンは第2戦のサンディエゴ、第3戦の千葉と連続優勝を果たした。昨年の千葉大会での室屋氏の優勝によって国内のエアレースへの興味関心はヒートアップ。今年の千葉大会では、予選(6月3日)、決勝(4日)の2日間でレース会場となった幕張海浜公園に集結した観客数は延べ9万人。室屋氏の優勝が決定した瞬間、広大な会場は、幕張の海岸全体が揺れるような熱狂のるつぼと化した。

しかし決して楽な勝利ではなかった。予選は4位。3度のフライトで争われる決勝の1回目、ラウンド14では先にフライトした選手のタイムを最後のセクターまで更新することができず、あわや初戦敗退かと思われた。しかしゴールした瞬間、ガッツポーズをしたのは室屋選手だった。対戦相手との差、わずか1000分の7秒。まさに薄氷の勝利でラウンド8へと駒を進めた。

続くラウンド8。先にフライトした室屋選手は途中エアゲートを規定の姿勢で通過できなかったという痛恨のミスによりプラス2秒のペナルティが課せられた。次に飛んだ対戦相手は無事ゴール。室屋は負けた。会場にいる誰もが肩を落とした。しかし対戦相手がゴールした直後、「審議」の表示が出さた。その結果、エアゲート通過中に機体を持ち上げたことによるペナルティ(プラス2秒)が課せられ、室屋選手は最後の戦い・4人で優勝を争うファイナル4への進出を決めた。

ファイナル4でも1番手でフライトした室屋選手は55.288秒というタイムで無事ゴール。予選トップ4のタイムは54秒台なのでお世辞にも好タイムとはいえない。あとは残りの3人がこのタイムを上回らないことを祈るだけだ。2番目に飛んだ選手は室屋選手から0.558秒遅れの55.846秒でゴール。これで3位表彰台は確定した。

残りの2人は昨年のワールドチャンピオンと何度も優勝経験をもつ強敵パイロットだったが、両者とも難易度が非常に高い千葉のレーストラックと強風という難しいコンディションに苦戦しペナルティを受けた。その結果、室屋氏の千葉大会2連覇、今季2度目の優勝が決定したのだ。

決勝後の記者会見で今回のレースを振り返る室屋氏の目は心なしか潤んでいるように思えた。

「まずはチーム、家族、スポンサー、このレースを日本に招致してくれたオーガナイザーに感謝したいですね。会場には予選・決勝の2日間で9万人というものすごく多くのファンが駆けつけてくれました。このファンの存在は大きなプレッシャーにもなりえますが、僕を後押ししてくれる力と捉えました。それがこの千葉で優勝することができた大きな理由だと思います」

この勝利で総合ランキングトップに立ち、最終目標である年間チャンピオンに1歩近づいた。しかし、室屋氏はあくまでも冷静だった。

「レッドブル・エアレースは全8戦で争われるので、この第3戦が終わってもまだ残り5戦もあります。だからこの先ポイントがどうなるか、まだまだわかりません。ファイナル4に残ることができればポイントは自然にたまっていくので、ポイントのことはあまり考えずにコンスタントにいいレースを続けていくことだけを考えて、残りのレースに臨みます」

 

後編では室屋氏がなぜ20年以上にもわたって多くの困難に負けず、無謀ともいえる夢に向かって挑み続けられてきたいのか。その理由に迫ります。

後編「困難に打ち勝つ秘訣」に続く

スペランカー、カイの冒険…道を切り開く鍛錬をファミコンが教えてくれた | メディア・アクティビスト 津田大介さん

f:id:kensukesuzuki:20170522130439j:plain
1983年7月に発売されて国内の累計販売台数は約1935万台、テレビゲーム機として革新的成功をおさめた「ファミリーコンピュータ」ことファミコンは、さまざまな社会現象を巻き起こし、テレビゲーム機の娯楽の枠を超えたカルチャーを生み出し、当時の子どもたちの生活の一部であった。

幼少期のファミコンでの遊びをとおして、友だちと一緒に笑い合い、駆け引きをしたり、あるいはケンカもした読者諸氏も多いことだろう。そんなファミコンとともにあった原体験は、実は今を生きる私たちの人生観や仕事観に大いに影響を与えてるのではないか? 本連載では、そんな確信をもって、さまざまなシーンで活躍されているビジネスパーソンや著名人にお話をうかがっていく。

第3回にご登場いただくのは、ジャーナリスト/メディア・アクティビストとして多彩な執筆活動をはじめ、マスメディアでコメンテーターとしてもご活躍されている津田大介さん。現在の余人に代えがたいポジションを築かれていく上で、ファミコンで培った鍛錬がその原点にあることがわかった――

ファミコン本体より先に買ったはじめの一本
『エレベーターアクション』

――ファミコンはいつ頃から遊んでいましたか?

f:id:kensukesuzuki:20170522130915j:plain

僕は1973年生まれでファミコンが出たのが1983年、だから小学4年生の時ですね。もともとゲームは好きでした。その前にすでに『スペースインベーダー』がアーケードゲームで登場して大ブームになって、うちの地元の近くには駄菓子屋さんがあったのですが、そこに行けばすごく安くゲームが遊べたんですよ。その時は『ドンキーコング』なんかも盛り上がっていました。

あと実家のすぐ裏に銭湯があって、そこに行くとテーブル筐体のゲームが設置されていて、家族で行くとたまに「やってもいいよ」なんてのも良い思い出です。そこで『ギャラクシアン』に夢中になったりね。

そんななか、小学校のクラスで裕福な子がいて、たぶん小2か小3だったかな、その子の家にはエポック社の『カセットビジョン※』などのゲーム機が複数あって、その友だちの家で夢中になって遊んでテレビゲームの魅力にハマっていきました。

※編集部注:カセットビジョン……1981年発売。ファミコンが登場する1983年までの間で日本で最も売れた家庭用ゲーム機。

 

――ファミコン本体は発売してすぐに買われたのでしょうか。

本体を買ってもらったのは少し後だったのですが、あまりにもファミコンがやりたくて、親にお願いしてカセットだけ先に買ってもらいました。僕らの時代はそういうこと多かったですよね?本体は持ってないけど、カセットは買ってもらうっていう。初めての一本は『エレベーターアクション』でした。

その後本体と一緒に買ってもらったのが、『おにゃんこTOWN』。ちょうどおニャン子クラブが盛り上がっていた時期なのに、それと関係ないクソゲー(笑)。あとはジャレコ『フィールドコンバット』なんかです。

難易度の高いアクションゲームを好んで遊んでいた

――わりと玄人受けするゲームを好まれていたのですね。

f:id:kensukesuzuki:20170522130936j:plain

とくに一番思い出深いのは『スぺランカー』でした。当時ファミコン雑誌でも叩かれまくってたじゃないですか、「あまりにも主人公が弱すぎる」って。でも僕はゲーム設定に興味をひかれたし、プレーするのは本当に難しいんですけど、すごく好きでした。やり込んでいくうちにだんだんとできるようになっていくところが特に良かった。それだけに、初めてエンディングのピラミッドが出てきた時は本当に感動しましたね。

ということもあって、結局ファミコンで好きだったのは、プレーヤー的にちょっとマゾっぽい、難易度の高いアクションゲームでした。

ちなみに僕は『ゼビウス』『ドルアーガの塔』といった作品のゲームクリエイター・遠藤雅伸さんをリスペクトし過ぎて、あるファミコン雑誌の付録の遠藤さんのポスターを部屋に貼っていたほどなんです。しかも「遠藤さんの後を追って、オレも千葉大に入ってゲームデザイナーになるんだ!」なんて思ってましたから。僕が好きな難易度の高いアクションゲームだと『カイの冒険』も遠藤さんの名作のひとつです。

 

――ファミコンでの原体験が今につながっているようなところはありますか?

僕ってもともとそんなに器用な方ではないんです。でも、何事もやり続ければだんだんと上手くなる、ということは身に付いたと思います。それこそ『スペランカー』とかまさにそうで。最初は一面すらクリアできないのですが、難しくてもやっていくうちに、それを繰り返していけば、意外と乗り越えられるんだな、というのはありますね。

f:id:kensukesuzuki:20170522131001j:plain

仕事でもそういう場面って結構あると思います。最初はできないことでも、地道にコツコツやっていけば、なんとかなるものです。ただ、その境地にたどり着けるゲームは限られたかな。そんな中では『飛龍の拳』シリーズも好きで、あれはシリーズ全作クリアするぐらい極めました。

「自分だけがこのゲームに注目している」という中二病

――ゲームの好き嫌いの境目ってありましたか?

とりあえずいろいろなジャンルのゲームをひととおりやってはいるんですけどね。『ファミスタ』も結構やりましたし。ただ、シューティングはあんまり得意じゃなかったかな。そういう点ではやっぱりスクロール型アクションでしょう。『スペランカー』をはじめ『カイの冒険』にしても、『スーパーマリオ』シリーズももちろん好きでした。やっぱりゲームの王道です。そんななかでも『ヒットラーの復活』は一押しの名作ですよ。

あとはRPGですが、『ミネルバトンサーガ』はメジャーとは言えないですけど、ほんと面白かった。あのRPGの斬新さといったら、制作者の矜持というか、RPGを革新してやるんだという感が溢れていてすごかった。

たとえば『ドラクエ』シリーズだと、街で会話したら基本的に会話内容って変わらないじゃないですか、同じセリフを繰り返すというか。そこが『ミネルバトンサーガ』は変わるんです。かなりセリフが変わって、そこが違うなっていうのとか、あと戦闘もすごかった。傭兵を使ってやるんですけど、すべての戦闘において「逃げる」のコマンドを選べて、しかも100パーセント逃げられる。ただそこで面白いなと思うのは、逃げ続けると敵との遭遇確率が上がるんですね。だから逃げ続けてると、1マス進むだけですぐ戦闘シーンになっちゃう。

 

――津田さんにとってのファミコンとは?

f:id:kensukesuzuki:20170522131023j:plain

さっきまで名前をあげてきたゲームがわりとあてはまるんですが、みんなは注目してないけど、「俺はこのゲームに注目してるんだぞ!」というか、「俺だけがこの面白さをわかってるんだ!」という中二病のようなものがありましたよね。

高校に入ってからも、ファミコンは部活の友だちとずっと『エキサイトバイク』とか『バレーボール』とか、ディスクシステムの対戦型スポーツゲームで遊んでました。まあなんか、ファミコンってコミュニケーションツールでしたよね。友だちとそうやって遊べたわけだし、そもそも「ファミリー」ってついてるくらいだし。まあ、僕にとってとにかく青春のすべてでしたから、ファミコンは。

f:id:kensukesuzuki:20170522131035j:plain

 

取材・文:深田洋介
1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。
http://famicom.memorial/

撮影・編集:鈴木健介

 

なぜ、熊本の被災地にテント村を作ったのか?―登山家・野口健氏の仕事論

f:id:junko_one:20170519103958j:plain

のぐち・けん

1973年、アメリカ生まれ。 亜細亜大学卒業。高校から登山を始め、1999年に25歳でチョモランマの登頂に成功し、当時の七大陸最高峰登頂最年少記録を樹立。エベレストや富士山の清掃活動など環境問題にも取り組んでいる。東日本大震災、ネパール大震災、熊本地震で支援活動を展開。著書に『世界遺産にされて富士山は泣いている』(PHP研究所)がある。

 

f:id:junko_one:20170519104136j:plain

東日本大震災など、
災害時の支援活動でも知られている 登山家の野口健氏。

最近では、熊本地震での「テント村」が
大きな話題となった。

なぜ、被災地で支援活動を始めたのか。

 

シェルパの「恩返ししたい」のひと言に、支援を決意

昨年4月、熊本県で震度7の大地震が起きたとき、僕はたまたま日本にいました。“たまたま”というのは、いつもその時期にはエベレスト登山のため、ヒマラヤにいるからです。ちょうど2年前の4月にネパール大地震が起きたときもそう。やはりヒマラヤにいました。

そのときはエベレストに向かう標高4500メートルの斜面で大地震に遭遇。地面が大きく揺れた後、大小さまざまな落石が上からころがってきて、どうにかよけながらシェルパ(ヒマラヤの現地人登山ガイド。もともとはネパールの一民族を指す)と一緒にふもとの村に降りたんです。家屋が何軒もつぶれていて、そこは惨状でした。一緒に登山をしていたシェルパの村も多くの家屋が潰れ、瓦礫の山になっていました。その後、余震が続く中、被害の状況を日本に知らせようと村々を歩いて回りました。倒壊の状態を調べるうちに、「地震で被害にあった人のために基金をつくろう」と気持ちが固まっていったんです。

立ち上げた「野口健 ヒマラヤ大震災基金」には3週間で6000万円、半年後には1億円もの寄付が集まりました。村々のリーダーたちと協議を重ねた結果、再建費用として一世帯当たり平均1250ドル(日本円で約16万円)を村の組合を通して村人に行き渡るように手配。その後も、学校やお寺など修復しなくてはならないものはたくさんあります。ヒマラヤ震災支援プロジェクトは、今も継続中です。

熊本地震が起きたのは、ヒマラヤでの活動で心身ともに疲れ果て、日本に帰国していた時のことです。ニュースで地震の速報を知って、とっさにこう思いました。「この地震、僕は何もしなくていいよな…」と。それぐらい疲れ切っていたし、ヒマラヤと同時に熊本を支援するのは無理だとも思いました。しかし、余震のせいで被害がどんどん増していく様子を目にするたび、「本当に動かなくていいのか」と心の中で葛藤があったのも事実です。「野口さん、熊本、大変なことになってますね」なんて声をかけられるたびに、「熊本もやりますよね」と言われているような気がして、つらくて、つらくて。

そんな僕を動かしたのが、ヒマラヤで一緒に活動したシェルパのひと言です。本震から3日後のこと、親しくしているシェルパから携帯に電話が入りました。「ほんの少ししかお金を送れないけど、日本の皆さんに恩返しがしたい」と。その後すぐに数人のシェルパから3万円、5万円とお金が送られてきたんです。5万円はネパールでは月収に当たるお金です。そのシェルパの言葉にやられました。シェルパもとても苦しい中、恩を忘れないで行動している。それなのに自分はどうなのか。ヒマラヤでの地震の時にたくさんのお金を日本の皆さんから送っていただいたのに、僕は恩返しをしないでいる。自分が恥ずかしくなりました。それで決意したんです。僕はツイッターに書き込みました。「熊本、やります。まずはテントを集めます」と。

 

前例のないテント村。毎日が試行錯誤の連続だった

熊本地震では、地震が起きてすぐに避難所がいっぱいになってしまい、車中泊を余儀なくされる人が数多く出ていました。その映像を見ていたら、ヒマラヤの被災地でテントが役に立っていたのを思い出して、熊本でテントを配ろうと考えたんです。

すぐさま自分で100張購入し、ツイッターでもテントを募集したところ、様々な方がテントや寝袋を提供してくださいました。現地に届けるのは、僕が環境・観光大使を務める岡山県総社市の片岡聡一市長が請け負ってくださるという。しかし、問題がありました。テントを扱ったことのない人が、自分で設置できるのか。適した場所選びができるのか。そんな不安を片岡市長に話したら、「テント村をやろう」と提案してくれたんです。設置場所を確保し、100張ほどのテントを設営して、車中泊の人を中心に入居してもらう。妙案でしたが、実現するまでにはたくさんの壁がありました。いや実現してからもです。何しろ前例のないことですから、毎日が試行錯誤の連続でした。

テント村は、被害が甚大で車中泊を余儀なくされる人が多かった益城町で運営することを決め、町長さんの許可も得たのですが、いざ設置しようとすると、現場の人まで話が通っていなかったり、設置場所である運動公園の管理事務所の間で意見が割れたりと、一進一退を繰り返しました。非常時ですから混乱は仕方のないことですが、前例のないことをやるのは非常に難しいことなんだと実感しましたね。

一番、問題視されたのは「公平性」です。テントを設営しようとしたとき、公園の管理事務所の人から「車中泊の人は全部で何人いるのか、調べましたか」と言われ、非常に困りました。「600人しかテントに入れないなら、車中泊の人がすべて入れないんじゃないのか。入れなかった人はどうするのか」と問い詰められもしました。確かにそういう意味では公平ではありません。でも、「すべての人を公平に受け入れられないのなら、すべてダメ」というのはどうなのか。

テントが設営できても、町全体に広報する手立てはありません。僕たちは運動公園の周辺に車中泊する人に声をかけたり、チラシを車のワイパーにはさんだりしたのですが、完全に公平かというとそうではない。援助物資もそうです。全員に同じように同じ分だけ配れるかというとそんなことはありません。テント村では基本的に「早い順」でした。アナウンスをして、取りにこられた順に配ります。そういうことが「公平性がない」と問題視されたんですね。

ただ、実際にその配り方でけんかになったり、不満が出たことはありませんでした。みんな譲り合っていましたからね。ときには避難所にいる人が取りに来ることもありましたよ。避難所では水1本でも長い列を作って並ばないとならない。でもテント村ならさほど並ばずに必要なものだけ選んで持っていけるから非常に助かると。実は、テント村には救援物資がたくさんあったんです。避難所では全員分の数がないと救援物資を受け取れないため、行き場がなくなった救援物資がテント村に回ってきていたんですよ。

もちろん公平性は大事です。でもそれは平常時でのこと。非常時は、「全員助けられないなら助けない」ではなく、「目の前に困っている人が一人でもいるなら助ける」ことが優先されるべきじゃないでしょうか。こういう時は、臨機応変さが大切なんです。厳密にやると何もできないですよ。

 

f:id:junko_one:20170519104401j:plain

テント村は5月まで続いた。

その間、一人の救急搬送も、
心配されていた犯罪もなく、
テント村には、笑いが絶えなかったという。

成功の要因は何だったのか。

 

ネガティブな雰囲気をどう払しょくするかを、いつも考えていた

テント村を運営する上で、一番大切にしていたことは「明るさ」です。雰囲気はすごく大事。極限状態の時は明るいほうがいい。そのほうが絶対うまくいきます。被災された方はいつ家に帰れるのか、仕事はどうなるのか、ものすごい不安を抱えています。だから、ネガティブな雰囲気をどう払しょくするかをいつも考えていました。さいわいテントは見た目も華やか。色鮮やかでなんとなくゴージャス感がある。そういう視覚的なものも大事です。だから、こいのぼりや風鈴を飾ったり、楽しい空間づくりを心がけていました。

ストレスをどう払しょくするかも大きな課題でした。最初にぶつかったのがトイレ問題。特に女性はトイレの滞在時間が長いから、不衛生で臭いトイレに対して、ものすごいストレスを感じるんです。長く車中泊を余儀なくされていた人たちはエコノミークラス症候群を防ぐために、たくさんの水を飲まなくてはならない。それなのに、トイレが汚いと水を控えようとしてしまう。どうしたものか困っていると、救いの手が現れました。知人を通じて災害用のトイレ「ラップポン」を5基寄付してもらったんです。これがすごいんですよ。排泄物が完全にラップされて出てくる。非常に衛生的で、臭いの問題もなくなりました。

もうひとつは娯楽。楽しむことって、どんなときもすごく大事。体育館の避難所では、声が響くからみんな静かにしていなきゃならない。子どもの笑い声もうるさく感じるみたいで、どなられたりする。子どもにとっても親にとっても、ものすごいストレスだったそうです。キャンプ村はもともと運動場ですから、空き地で子どもたちがボールを蹴って遊ぶこともできる。今後のことを心配していた親御さんも、遊んで笑っている子どもの姿を見ると希望がわいてくると。お年寄りも、子どもたちが笑っている声を聞くとなんだか楽しい気持ちになると言っていました。そういう明るさって、いろんなことを好転させますよね。

運営スタッフもそうです。僕らが倒れるわけにはいかないから、交代で市内のホテルに帰って休養する日を設けていました。テント村ではスタッフは救援物資を食べるわけにはいかないので、持ち込んだカップラーメンを食べていました。でもそれだけだと飽きるでしょ。ホテルに戻ったときにはおいしいものを飲んで食べて、楽しむようにしていました。ボランティアで被災地に行くと、すべてを犠牲にしなくちゃいけないと思われがちだけど、それでは身も心ももたない。なにしろ長期戦ですから。定期的に休みをとってストレスを発散しないと続かないんです。僕も休みの時はホテルに戻って、夜は居酒屋で楽しく飲んでましたよ。

スタッフには「キャパを超えて頑張ってはいけない」と言っていました。日本では我慢は美徳になっているけれど、我慢ばかりしていたら、ストレスで健康を害してしまいます。テント村は幸いなことに600人いましたが、緊急搬送された人はゼロでした。もちろん食料や水などの救援物資が潤沢にあったことや、救命救急士や針きゅう師の方々が頻繁に見回ってくれたこともあります。それに加えてストレスのない生活を送れたことも大きかったと思うんです。

キャンプ村のポリシーは「今日よりも明日をよくする」。今日できなくとも、明日できればよし、としました。なんでも最初から完璧に、では何事も始められません。まずはやり始めて、「走りながら工夫していくこと」が大事です。もちろんやり始めるときには、いろいろなリスクを想定しますが、実際にはやってみて初めて気づくこともたくさんあるんです。特に困っている人が何を求めているかということは、直面してみないとわからないことが多い。トイレの問題とか、そうですよね。「清潔なトイレで、人の表情がこんなにも明るくなるんだ…」。これには本当に驚きました。

やらない言い訳を自分にするのも、やるのと同じくらいエネルギーを使う

テント村の運営には、本当に多くの方のお力を借りました。「どうしてそんなにいろんな人を巻き込むことができるのですか」とよく聞かれますが、巻き込むんじゃなくて、押しつけてるんです(笑)。最初に「やります」と宣言するでしょ。でも、実際には金がない、物がない、人がいない。それで、片っ端から「頼む、頼む、頼む」と言いまくる。テント村が始まっても、「あれがない、困った、困った」と連絡しっぱなしです。でも、実際に動いて困っていると、見かねて助けてくれる人がいるんですよ。だからまず、始めることが大事。あとは、走りながら考えればいい。

誰かに支援を求めるときには、「できること」と「できないこと」を明確にしておくといいですよ。「自分たちでこれはやっているんですが、これは無理なんです」と言うと、援助する人も手を差し伸べやすくなります。

壁にぶち当たったら一人で抱え込まないこと。ミスをしてしまって動けなくなったら、周りの人に助けを求めることです。テント村にもいろんな専門家がきてくれていたので、困ったことがあると、その都度いろんな相談をしていました。その専門家の方がいろんな人を紹介してくださって、なんとかなったんです。いろんな人を巻き込んでいけば、どんな壁でも乗り越えられるものです。

失敗するのが嫌で何もできない人がいると思うけど、気持ち、わかりますよ。僕も熊本の支援を決断するまで、1日迷いましたから。僕の場合はできるかなという不安でした。でも、やらない言い訳を自分にするのも、やるのと同じくらいエネルギーを使うんです。どうせエネルギーを使うんなら、やったほうがいい。たくさんの発見があるし、何より人の役に立ったとき、本当に嬉しい。そして次にやることも見つかります。自分の役割って、人に感謝されることで見えてくるものだと思うんですよ。

 

『震災が起きた後で死なないために 「避難所にテント村」という選択肢』野口 健著

f:id:junko_one:20170519104611j:plain

熊本地震のテント村。車中泊を余儀なくされる人をエコノミークラス症候群から救いたい。そんな思いで始めたテント村の運営だったが、前例のないことだけに、さまざまな壁が立ちはだかっていた。被災地の現場では、実際に何が起きていたのか。極限状態で人々はどんなことに不安を感じ、どんな行動をとるのか。東日本大震災、ヒマラヤ地震、熊本地震と、大災害の地に自ら赴き、支援をしてきた登山家・野口健氏だからこそ語れる本音が満載。「極限状態こそ明るさが大事」などビジネスにも使える話が多い。先行き不安な時代に「生きる力をつけたい」ビジネスパーソン必読の書。

(PHP新書)

※リクナビNEXT 2017年5月19日「プロ論」記事より転載

EDIT/WRITING 高嶋ちほ子 DESIGN マグスター PHOTO 栗原克己

「いつまでこんな生活続けるの?」と言われるけど、僕はこの生き方を貫きたい――“自転車冒険家”「僕が自転車で世界を旅する理由」 season1

10年間で27ヵ国、80,000kmを自転車だけで走り抜けた男がいる。その名は西川昌徳(33歳)。

世界各地の旅先で自力で水や食べ物を確保し、寝る場所を見つけテントを張る。パンクなど日常茶飯事。時には命の危険を感じるトラブルに遭遇することもある。それでも彼はゴールを目指し、日々ペダルを踏み続ける。そんな経験を日本中の子供たちに知ってほしいと、小学校での授業や講演活動も続けている。

彼にとって「自転車で世界を旅すること」とは一体何なのか? なぜこうした経験を子供たちに伝えたいと考えたのか? 今年アメリカ大陸縦断の旅から帰国したばかりの彼に、今回の旅、これまで人生、仕事に対する思いを全4回のインタビューでじっくりと伺った。

今回はいよいよ最終回。自転車旅を続ける西川さんに、様々な人が「いつまでこんな生活続けるのか?」ということを言ってくるそうです。果たして西川さんの考えは?

f:id:k_kushida:20170515171316j:plain

即効性のあるものに、頼って生きていきたくない

──西川さんはこの生き方を今後も貫いていくつもりですか? 

僕はいろんな人から「お前いつまでそんなこと続けんねん」「そんなんできんの、若い内だけやぞ」とかいろんなことを言われて、ここまで10年間やってきました。

僕が取り組んでいること、つまり旅先でのスカイプ授業や、帰国してからの授業や講演は、学校現場のニーズに入ってません。より正確に言うと、子供が世界を知るというのはニーズなんですが、子供の内面に対するアプローチは明確なニーズとして表面化していないんです。だから価値に置き換えるのはすごく難しい。でも子供たちにとって必ずプラスになることやと信じているし、僕はこれを貫いていくことを決めました。だからそれに対しての迷いや不安は今はないですね。

──まさに生きることそのものが冒険って感じですね。お金、収入の不安とかもないんですか?

実は元々すべての活動をお金に結びつけなくてもいいんじゃないかという思いは自分の中にずっとあったんです。その時はお金にならなくてもいつか何かしらかの形で返ってくることで生きていける、そういうことを信じたいという気持ちもずっともってたんですが、信じきることができないブレーキになっていたのがまさに食べていくことの不安ですよ。でも、今回の体験で、走りながら今までのいろんな出来事とか経験とか考えとかをもう1回新しいフィルターを通して考える中で再認識したことがあります。

僕のやってる活動って現金化しにくいので、段々お金がなくなってきたときに、即効性のあるものに頼りたくなりますよね。どこかに営業しに行った方がいいんじゃないかとかバイトしようかなとか、どうしたらお金がすぐ貯まるかなとか考えちゃう。でも、そういうものが、「こういうことをやってみたい」という本当に心から湧き上がってくる気持ちを鈍らせるんです。

──どういうことですか?

多くの人はある程度保証とか見通しのつくことじゃないとやりたがらないですよね。例えば1時間働いたら800円もらえるから働くとか。でも僕がやってることって1年やってもお金になるかどうかわからない。僕の活動に価値があると思ってくれる人がいなければ単なる旅になっちゃう。

だからずっと信じきれてなかったんですが、今回は不安に感じるレベルを超えてお金がゼロになっちゃった(笑)。でも子供たちのお陰で旅を続けようという気持ちが生まれた。こういうことって今までなかったんですよ。お金がゼロになったらお金を得るために動かないといけないのに、自分の中から自然に湧き上がってくる「まだ走りたい」という思いの部分で動いた。

お金がゼロになったら無理でしょ、普通。生活できないから。でも今回の旅では特別な条件が重なって、非日常の中でお金に頼らなくてもなんとかなるチャンスがあったんです。そこで動いたのが何だったのかというと、人の善意ですよ。僕が今までもしかしたら築き上げてきた信用というか恩の部分が人の動きという形として初めて見えた。人の思いが繋がっていくのが見えた。そして、全然知らない人がその思いをもって僕に接してくれるのが見えた。

それって僕の直接的な恩送りじゃないけど、グルっと回って返って来たという感覚なんですよ。それで最後の1ヵ月間自転車旅をさせてもらえて、自分の思いが成し遂げられて帰ってきたでしょう?だからすべてをお金に紐付けない生き方っていうのを信じていいじゃんって思ったんです。

f:id:k_kushida:20170516095310j:plain

▲5月8日~17日までオリンパスプラザ東京で行われた西川さんの写真展にて。13日に開催されたトークショーは立ち見客も出るほどの人気ぶり。大いに盛り上がった。

世の中のニーズに応えられれば、それは「仕事」になる

──なるほど。そこでも仲間の存在が大きく影響したんですね。

僕のやってることをずっと見守ってくれてた仲間は何かトラブルが起こる度に僕にメッセージを送ってくれたわけでもないし、コメントを書いてくれてたわけでもないですよ。でも僕が彼らのことを意識せずにFacebookに書いた「それでもまだ旅を続けたい」という言葉を受け取って、彼らは動いてくれた。それはたぶん、僕が発信したことが彼らに届いてて積み重なったものが彼らの行動に繋がったと思うんです。

よく「恩送り」とか「ペイフォワード」と言われていることは、僕も信じたいな、できるときにはやりたいなと思って今まで生きてきたけど、ほんとに一周グルっと回って返ってきたという強烈な体験というのは今までなかった。でも今回のこの体験で、もうこれ信じ切っていいなと思ったわけです。

僕がずっと子供に言ってきたのは「世の中のニーズに応えられれば仕事になる」ということ。でも僕がやってることはみんなが声に出して「ほしい」と言うわけじゃないけど、もしかしたらどこかで求めている人がいるかもしれないという潜在ニーズにタッチしていると思ったんですよ。それはおそらくこれからの社会でいつか日の目を見る時が来ると思えたから、僕がやってることは間違いないという自信がついたんです。だから、確かに仕事としてやる場合、お金は必要で、現金化できるラインに達している活動と達していない活動があるんですが、後者の活動の方のウエイトをもっと増やしてもいいんじゃないかと思ったんです。

短期的、直接的な見返りよりも“ペイフォワード”を信じたい

こういうことをFacebookに書いた日、めっちゃおもしろいことが起こったんですよ。大学病院から講演の依頼が来て、先生と打ち合わせをしたら思いが同じだったのですごく盛り上がってぜひこういう感じでやりましょうということになりました。その時は講演料の話なんかもしてないんですよね。先方が出せる額をいただけたらいいかなと。なぜなら僕自身がやりたいと思ったことだから。そしたら帰宅した後に先生から「申し訳ありませんが捻出できる予算が全然ないということがわかりました」というメールが来たんです。

最初はおっとっと…って思ったけど、すぐに「待てよ。早速来た。これチャンスや」って思ったんです。こういうふうになりたいなと思ってFacebookに書いたやつの、第1弾がその日のうちに来た。今回、自分がこうやりたいという旅が現実になったように、僕がこうありたいと思ったことが早速来た。最高やないかと。

そんで、この話をたまたま会ったいつもお世話になってる人に何気なく言ったら、なんと「じゃあ俺がそれを仕事にする」とその場で返ってきたんですよ。うれしいしびっくりですよね。また来た!って思いました。

これなんかわかりやすい例ですが、こういうことがこれから増えていくんじゃないかなと思いますね。そもそもお金ってめっちゃ不安定じゃないですか。ある国の大統領が代わるだけであっちゅう間にお金の価値が上がったり下がったりするし。政治や経済のことって自分ではどうしようもないことですよね。

あ、今思いついたんですが、安定しないものに寄りかかるよりも、安定してるものに寄りかかった方が自分の心は健康でいられますよね。それが多分「恩」の方。自分が裏切らなければあんまり増減しない。裏切ればあっという間になくなって、積み上げるのにも時間がかかるけど、すごく信頼していい価値なんじゃないかなと思います。

f:id:k_kushida:20170515172640j:plain

▲福島県新地町の駒ヶ嶺小学校での帰国報告会にて

──では今後も経費やギャラが出なくても、自分がやりたいと思ったらやるんですか?

相手の思いを聞いて僕がやりたいと思ったらやるんじゃないですかね。多分、今回のこの気付きは時間が経っても消えにくいと思います。今やろうとしている授業や講演はそんなにお金もかからないし、体一つでその日その場所に行けるだけの交通費さえあればできることだから。

いろんな人にごはんをごちそうしてもらってるんですが、今までは西川が情けない、頼りないと思うからごちそうしてくれてはるんやと思っていたのですが、それを自分が生み出している価値と置き換えてみたらおこがましいけど理にかなってるんですよ。僕が提供する価値を受け取った人ができる形で返してくださってる。それがごはんを食べさせてくれることだったり、家に泊めてくれることだったり。サービスの交換ですよね。僕が何かをあげて、その代わりに何かをいただくという。おもしろいですよね(笑)。

──これからも旅を続けるということですが、今後の旅の予定は?

今回、時間的なリミットでメキシコシティまでしか行けなかったので、今年(2017)の6月にまたメキシコシティに飛んで、そこからスタートして、当初のゴールに設定していた南米コロンビアを目指します。

──また行くんですね。今度の自転車冒険も旅の無事を祈ると同時に、どんなことが起こるのかも楽しみにしてます。

ありがとうございます。頑張ります(笑)。この記事を読んでくださった人も今日ここで僕の仲間になっていただければうれしいです。

連載<“自転車冒険家”西川昌徳の「僕が自転車で世界を旅する理由」 season1>記事一覧はこちら

文/写真:山下久猛 写真提供:西川昌徳

キンコン西野が説く! 現代社会を生き抜くキャリアのつくり方

f:id:tany_tanimoto:20170420122509j:plain

27万部を超えるベストセラーになった絵本『えんとつ町のプペル』の制作、ニューヨークや日本各地での個展の開催など、従来の「お笑い芸人」の枠に囚われない多彩な活動を続けているキングコングの西野亮廣さん。芸人としてのこれまでのキャリアを振り返りながら、そのユニークな仕事観やこれからの時代に求められる働き方についてお話をうかがいました。

「若さ」しかなかったから、「テンポと手数」で勝負した

——西野さんがそもそもお笑いの世界に入ったきっかけは何だったんでしょうか?

西野亮廣さん(以下、西野):小2のときに、教室の前の方でおちゃらけたことをやってたら、好きな女の子から声をかけられたんですよ。それで、「面白いことしていたら向こうから話しかけてくれるんや」って。それからずっとそのままです。テレビで芸人さんを見ていたらラクそうだったし、「えっ、これが仕事なん?」みたいな。脱線することなく、そのまま吉本に入っちゃった。

「プロの芸人が、仕事としてお笑いをやっている」っていうことを、あんまり意識してなかったんですよ。文化祭とかで「やたらとはしゃぐようなやつ」っているじゃないですか。僕はそっち側で、本当にチャラチャラしていたので、あんまり冷静に物事を見られる人間ではなかったんです。いろいろ考えるようになったのはこの世界に入ってからですね。

——それはお笑いの養成所に入ってから、ということですか?

西野:入って最初の半年くらいはフラフラしていたんですけど、(相方の)梶原(雄太さん)とコンビ組んでからは、「1年ぐらいで売れてやろう」って思ってました。親にも言ってたんですよ。「1年以内に結果が出なかったら辞める」って。

——大勢いる同期の芸人の中で目立つために、いろいろなことを考えるようになったんですね。

西野:まずは、(漫才の)コンクールで賞を取らなきゃいけないな、と思って。僕たちが養成所に入った頃、漫才ってもっとゆったりやるものだったんですよ。でも、「いやいや、これはコンクール向きではないよな」と。だから、梶原と「とにかくテンポ上げようぜ」「ボケの手数増やそうぜ」って話し合って。当時まだ19歳ですから、そんなにセンスも才能もないし、深いことも言えないし、手数やテンポでしか勝てなかったっていうのもあります。だからとにかく「若さ」で勝負しようぜ、って。

f:id:tany_tanimoto:20170420122603j:plain

絶頂期に感じた「絶望」から、パラレルキャリアへシフト

——結果的には、在学中に賞を取って、世に出ることに成功したわけですね。

西野:まあ、世間的にはうまくいってたほうだと思うんです。20歳で『はねるのトびら』がスタートして。でも、僕は「あいつ、おもろないな」「仕切り下手やな」って言われて。劇場でもMCみたいなのをやったことないし、経験値ないし、引き出しもない。あんまりうまくいってなかったですよ。事実、梶原は限界を感じて、その時期に一度失踪しましたから。そこで仕事が完全になくなって、3カ月ぐらいで梶原が戻ってきてから、「よし、もう一回やるか」ってなったんですよね。

そこから結構がんばって、25歳ぐらいのときに、たぶん外側から見ると最盛期を迎えていたんです。冠番組をいっぱいいただいて、『はねるのトびら』は毎週視聴率20%超えていて。「こうなりたいな」っていう姿になれたんですけど、芸能界の順番は全然変わってなかったんですよね。タモリさん、(ビート)たけしさん、(明石家)さんまさん、ダウンタウンさんはずっと上にいらっしゃるし、ナイナイさん、ロンブーさんもいて。一応、最大瞬間風速を出したけど、「ここでホームラン打てなかったら、もう打てないじゃん」って。ああ、このままじゃまずいなって思ったんです。そこからひな壇に出るのをやめて、グルメ番組、クイズ番組、情報番組には出ないようにして、「自分の得意じゃないことはやめて、絵本を作ろう」と。それがいちばんハンドルを切った瞬間かもしれないですね。

——そのときはどういうお気持ちでしたか?

西野:最初は絶望でしたよね。「ここまで行っても時代なんて変わらないんだ」って。絵本を描き始めたときには、どうだったんだろう、不安だったのかな……まあ、すがるような思いではありましたね。「ここでもうひとつ上にいかないと、その先はない」と思っていたので。「当てるしかない」みたいな感じでした。

『27時間テレビ』とかでっかい特番に出たら、やっぱり自分はひな壇の後ろのほうになるんですよ。真ん中にはタモリさんとか錚々たる方々がいらっしゃって。「あっ、このシステムに取り込まれたらダメだ」って思ったんですよね。要するに、テレビときちんと交渉できる立場じゃないとダメだなと。「その条件じゃ出ません」って言える立場に行かないと、逆転なんかないですから。

——いわば、使ってもらう側にいることに限界を感じたわけですね。

西野:まあ、そこで使ってもらえるというか、期待される役割を演じられるほどの才能もたぶんないですし。「10年経ったらこうなるだろうな」っていう予想もつく。その確認作業をするためだけに続けたくはないな、と。やっぱり、「テレビに出るっていう選択肢しかない」一択だと苦しいなって。だからテレビ以外の仕事を充実させて、極端な話、テレビ以外の活動でもきっちりご飯が食べられるようにしておこうと思ったんです。

f:id:tany_tanimoto:20170420122642j:plain

「勝てる方法で勝負する」ことが炎上を招く?

——絵本を描くにあたっては、かなり綿密に作戦を立てて始めたそうですね。

西野:はい、絵本もやるからには「タレントが出す絵本」になっちゃったらダメじゃないですか。やるからには全「絵本作家」に勝つ、っていうのを決めて。どうやったら勝てるかなって考えて、勝てるところで勝とうと。プロの絵本作家さんと比べて、画力は負けてるし、出版のノウハウもコネもツテもないので、基本的に負けてるところだらけ。でもひとつだけ、時間なら勝ってるな、って。つまり、僕は絵本を生業としていないので、ひとつの作品を作るために時間を無限にかけられる。これが兼業のアドバンテージだと思ったんですね。

で、文房具屋さんに行って、一番細いペンを買って、物語も長くして。どうがんばっても時間がかかるような作り方を選んだんです。その辺はなんか、したたかですよね。自分がそもそも表現したいものがそれだったわけではなくて、「こうやったら理論的にプロに負けないな」っていう。今は結果的に絵本を作るのも好きになってますけど、入口はそんな感じでした。

——西野さんはたびたびウェブ上で炎上騒ぎを起こしていますが、振り返ると実はその歴史も長いですよね。ブログの頃からじゃないですか?

西野:そうです、長いです。「信頼と実績の炎上」ですから(笑)。昨日今日に始まったことではないです。考えてみたら、1年目のときから炎上してましたよ。当時はSNSがなかったので、可視化されてなかっただけで。「キングコングです、イェイイェイ」ってやった瞬間から「こいつら、何やってんの?」「なんで漫才を張り切ってやってんの?」みたいな。もっとリアルな嫌がらせみたいなのもありましたよ。僕にとっては炎上しない日がなくて、暖炉みたいに常に燃えているんです。だから何とも思わないのかもしれないですね。

——もはや何を言われてもビクともしない感じがありますね。

西野:まあ、何もないですからね。実際に直接殴られたりしたらもちろん嫌ですけど、別にSNSで炎上しようが、何もないっていう。

——西野さんが最近バラエティに出ているときのあの感じ、いいですよね。先輩芸人にイジられまくって。

西野:いやあ、ありがたいですよね。東野(幸治)さんとかには本当に、死ぬんちゃうかっていうぐらい、イジられますからね(笑)。あれだけ罵詈雑言浴びせられて。でも、それは加地さん(加地倫三プロデューサー、テレビ朝日『アメトーーク!』などを制作)や佐久間さん(佐久間宣行プロデューサー、テレビ東京『ゴッドタン』などを制作)のおかげですね。「西野の取扱説明書」をそこで書いてくださったので。

——バラエティの中でひどい扱いを受けることは嫌ではないですか。

西野:お客さんが目の前で笑ってたら別にいいか、って。でもまあ、がんばって仕事した感はないですね(笑)。僕は「やめろ!」って言ってるだけですから。

f:id:tany_tanimoto:20170420122752j:plain

物語を終わらせないために、大きな目標を掲げる

——最近では絵本の内容をウェブ上で無料公開したことで、賛否両論の議論が起こりました。

西野:世の中では「いじめは良くない」けど、「西野に関してはOK」みたいなのはありがたいですよね。僕の場合は「ちょっと聞いてよ」ってライブでもしゃべれるし、テレビでも言い訳の場がある。

——見向きもされないよりは、マイナスでもいいからどんどん話題にしてほしい、という感じなんでしょうか。

西野:僕たちの活動って、ライブにお客さんが来てくださるとか、本を買ってもらうとか、「自分のことを好きか、興味のある人」の数しか、売り上げとして計上されないんですよ。だから、嫌いって言う人が10人いようが1000万人いようが、これは数字上ゼロなんですよね。それなら例えば、自分が情報発信して、1:9で嫌われるほうが多いとしたら、この比率を変えるより分母を広げればいい。100人に情報を発信したら10人しか応援してくれる人がいない。でも、1000万人に発信したら100万人が自分のことを支持してくれる。比率が悪ければ悪いほど声をでかくしていったほうがいいんですよ。

——その戦略も功を奏して、最新作『えんとつ町のプペル』は今までの作品の中で一番売れていますよね。

西野:本当にありがたい話です。でも、ここからです。僕、100万部売るって言ってるんで。

f:id:tany_tanimoto:20170420123505j:plain

最新作の『えんとつ町のプぺル 』(幻冬舎)は、2016年10月の発売以来27万部を超えるベストセラーとなっている。

——「100万部」っていう数字にはこだわりがあるんでしょうか。

西野:アホっぽくて良くないですか?(笑)「目標100万」って。笑っちゃうんですよね、なんか。『ドラゴンボール』でフリーザが「わたしの戦闘力は53万です」って言ったときに、なんか僕、笑っちゃったんですよ、すごすぎて。あれは数字ボケの最高峰です。「ディズニーを倒す」っていうのも同じで、要は僕らの仕事って、物語を終わらせたらダメなんですよ。お客さんは「こいつらが何かやってくれる」と期待してくれている。だから、途方もない目標ほどいいんです。遠のいたり、失敗したりしても、その過程を見てくれてるから。

f:id:tany_tanimoto:20170420123831j:plain

「肩書きにこだわる」より「やりたいこと」をやろう

——最近、世間では仕事でストレスを抱えながら長時間の残業を余儀なくされるような人も多いようです。西野さんはこの問題についてどう思われますか。

西野:そもそも無理やり長時間労働させるっていうのは、効率が悪いと思っちゃうんですよ。経営者としてあんまりセンスがないですよね。そんなことよりも、社員さんが夢中で仕事をやりたくなるようにデザインしたほうがいいだろうな、って。僕たちの仕事って、休みの日とかでも関係なくやるじゃないですか。それがお金になるかどうかはさておき、好きだからやるでしょう。そのほうが健全ですよね。あと、会社が嫌だったら、辞めたほうがいいですよ。

——日本では一度入った会社を辞めてはいけないという風潮がまだありますよね。

西野:ありますよね。僕もシャレで「芸人やめる」って言ったことがあるんですよ。芸人やめて絵本作家になったと思ったら、その日に絵本作家もすぐやめて。僕はもう肩書きって古いと思っているんですよ。今はすべての職業に寿命があることがわかってしまったし、これからすごいスピードでいろいろな職業がなくなっていく。肩書きという文化そのものが未来に対応していないから、とにかく捨てたほうがいいですよね。

そんなことより、「何となく面白いことしたいんだよね」とか、「お金稼ぎたい」「女の子にモテたい」みたいな、ざっくりした方向性だけ決めておけばいいと思うんです。そういう尺度で、やることを選んでいけばいい。「肩書きで自分を縛る」っていうのは、あんまりいい未来が待ってない気がしちゃいますね。

f:id:tany_tanimoto:20170420123923j:plain

西野亮廣
1980年兵庫県生まれ。1999年梶原雄太と漫才コンビ「キングコング」を結成。お笑い芸人にとどまらず、2009年には絵本『Dr.インクの星空キネマ』(幻冬舎)を発表。ソロトークライブや舞台の脚本や演出を手がけ、海外でも個展やライブ活動を行うなど、マルチな才能を発揮している。著書『魔法のコンパス 道なき道の歩き方 』(主婦と生活社)、絵本最新作『えんとつ町のプぺル』(幻冬舎)など。

 

f:id:tany_tanimoto:20170420124754j:plain

えんとつ町のプぺル 』(幻冬舎)

キングコング西野オフィシャルダイアリー
お金の奴隷解放宣言。
※『えんとつ町のプペル』無料公開に関するブログ

 

 

 

 

 WRITING:ラリー遠田+プレスラボ PHOTO:伊藤圭