「やりたいこと」なんか見つからない!

6人のプロが語る「キャリア漂流のススメ」

「やりたいことが見つからない」そんなふうに考え、仕事に身が入らなかったりする人は意外と多いのではないだろうか。しかし、現在、一流と言われているプロフェッショナルたちも、最初からやりたい仕事に就いていたわけではない。“なんとなく”“縁があって”“食べるために仕方なく”始めことが、いつの間にか“心からやりたいこと”になっていたという人が、実はたくさんいるのだ。今回は、連載記事『プロ論。』のなかから、そんなプロフェッショナルたちのキャリアパスを紹介する。

2012年4月4日

【1】作家 阿川佐和子氏の場合

阿川佐和子氏

「これがやりたい、自信がある、なんてことは、何もなかった」と語るのは、現在、作家やタレントとしてさまざまな場で大活躍の阿川佐和子氏だ。初めてテレビに出たのは、28歳のとき。それまでは、結婚して家庭に入り、内職程度に好きな織物の仕事ができればと考えていたという。そんな阿川氏が朝の生番組のレポーターとして抜擢されたのは、“親の七光”だったと語る。「父と私がそろって雑誌に載っているのを番組プロデューサーが見て、こいつ誰だ、小説家の娘らしいけれども、と声をかけてくださった。それまでテレビの仕事に興味があったわけではありません」
その後、30歳になる直前に、TBSの報道番組から声がかかり、アシスタントをすることになった。6年経っても、ちっともうまくならない。ニュースを読むのもインタビューをするのも下手。怒られてばかりで、いつも泣いていたという。そんな阿川氏の心に変化が訪れたのは、テレビの仕事を一回離れたことがきっかけだった。「それまで筑紫哲也さんの『NEWS23』でキャスターを務めていたのですが、報道の現場に全然ついていけなかった。そのころ、安藤優子さんや櫻井よしこさんといったそうそうたる女性キャスターが活躍していました。彼女たちと私が同じ肩書き。これじゃ詐欺だと思って、辞めたんです」
テレビ局の人には「きみは親の七光で仕事を始めた。だけど、どれも中途半端。いま看板番組を辞めたら、仕事がなくなるぞ」と言われたという。
「全くその通りなんです。でも、テレビの仕事を辞めて、それでも『これやってみないか』と言ってもらえるものが一つでもあったら、きっとそれが私の取り柄なんだとも思いました。幸いにも、そう言ってくださる人が現れたのは、本当にありがたいことです。相変わらず自分には何ができるかわからないし、自信もない。でも、そんなしょうもない自分を買ってくれる人がいるのなら、必死に頑張ろうと思いました」
そんなとき、週刊文春の連載の話が舞い込んできた。『阿川佐和子のこの人に会いたい』だ。この企画は人気連載となり、現在までに900回を数えるまでになった。
「テレビもラジオも、こんな私に期待してくださる人がいたから始めて、続けていることです。期待にこたえようとか、怒られたくないとか思いながら、とにかく続けていたら誰だって、少しずつうまくなるものではないでしょうか」と阿川氏は語る。

【2】昭和女子大学学長 坂東眞理子氏の場合

坂東眞理子氏

「そもそも仕事は面白くないもの。でも、頑張っていくとだんだん楽しくなっていくんです」とそう語るのは、著書『女性の品格』が300万部を越えるベストセラーとなった坂東眞理子氏。現在は昭和女子大学の学長を務める坂東氏だが、もともとは総理府(現・内閣府)のキャリア官僚。女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベーン)ともなった人物だ。華やかなキャリアパスを歩んできたように思えるが、東京大学を卒業して総理府を選んだのは、ほかに女性を活かしてもらえる職場がほとんどなかったからだと語る。
「事務職とアシスタント以外に、女性を採用する民間企業は、当時はほとんどありませんでした。大学までは、男女平等で育ってきたわけです。ところが、社会に出ると男性とは扱いが違う。そんなのシャクでしょ。建前だけでも、差別がない状況でいてほしいと思う(笑)。そんな中でたまたま総理府が採用してくれた。嬉しかったですね」
しかし、ようやく就職できたにもかかわらず、20代は公務員に向いていないと悩みの日々が続いたという。転機となったのは、1975年の国際婦人年に総理府の婦人問題担当室に配属されたこと。そこでさまざまな調査をしていくうえで、チャンスを与えられていないのは、自分だけでなく女性全般だと知る。そんななか、『第1回女性白書』を書き、それが自著を出すきっかけとなった。
「女性が抱える問題を世に問えば、反響も起こります。新聞や雑誌に取り上げられたこともあります。これで、仕事とはまた別の手応えを得ることができました」
その後、子育てをしながら仕事を続けた坂東氏。今よりも女性が働き続けることに理解が少なかった時代。苦労も多かったはずだ。
「辞めたら復帰できなくなるという危機感だけでなく、仕事を通じてインパクトを与えている、世の中を変えているという手応えがあったからです。向いていないと悩んだ公務員でしたが、30代で白書を書いて一本立ちし、40代ではチームリーダーになれた。特にグループで大きな仕事をすることには、醍醐味を感じました」と坂東氏は当時を振り返る。

【3】アッシュ・ペー・フランス 代表取締役 村松孝尚氏の場合

村松孝尚氏

1985年に設立して以来、全国に86店舗、年商104億円の企業へと成長を遂げた「アッシュ・ぺー・フランス」。アパレル業界の風雲児と言われる村松社長は元ミニコミ雑誌の編集者。ファッションとは無縁の仕事に就いていた。そんな村松社長が、ファッションの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、結婚して子どもができ、「食べていけなくなったから」だという。
出版社を辞めてからは、早朝から築地市場、昼間は魚河岸、夜はホテルで皿洗いと、寝る時間以外は働くという生活が2年ほど続いた。その後、たまたま奥さんが働いていた婦人服のオーナーが店の譲渡先を探しているという話を聞き、店を始めた。「全くの素人でしたが、魚河岸よりは稼げるかなと思ったから。目の前に選択肢はほとんどなかったんです」と村松氏。
業界未経験で始めた仕事は、必ずしも順風満帆だったわけではない。国内の商品が軌道に乗って、その資金を元手に、パリで買いつけを始めるも、買いつけた商品が全然売れない。まだ店舗数もそんなになかったころで、在庫をたくさん抱えて本当に苦しい思いをしたという。
そんな村松氏を救ったのが、知人のフランス人だ。その人から、才気あふれるバイヤーを紹介されたのだ。「知人から『あなたはセンスが悪いから、いいバイヤーを紹介してあげる』と言われたんです。それがドミニク・ロンド。喫茶店で会って、20分くらい話したかな。彼女にはものすごいクリエイションを感じたんです。物を作る人だけじゃなくてバイヤーにもクリエイションは必要なんですが、彼女にはそれがあった。これはすごいぞと。直感です。それでその場で、彼女の名前で原宿に店を出すことに決めました」
こうした出会いが重なって、「アッシュ・ペー・フランス」は少しずつ大きくなった。
「計画を立てて事業を進めていくのではなくて、人との出会いをきっかけとして、仕事を発展させていくのが僕のやり方。僕はバイヤーとしてはヘボだったけど(笑)、人を発掘すること、人と話していく中で何かを生み出すことには自信があるんです。僕は誰にでも才能があると思っています。若いうちは、なかなか見つけられないけどね」
村松氏の才能は、“人の才能を見つけ、伸ばしていくこと”。でも、これがわかったのは40歳を過ぎたころだと村松氏は語る。

【4】『機動戦士ガンダム』の生みの親 富野由悠季氏の場合

富野由悠季氏

社会現象ともなった『機動戦士ガンダム』の生みの親である富野由悠季監督。日本のアニメーションに革命を起こしたカリスマである。しかし、そんな富野監督も、「もともとアニメの世界に行きたくなかった」と語っている。
日本大学芸術学部を卒業した富野監督は、虫プロダクションに入社した。それは「食べるための選択だった」という。それでも入社後は「動く絵をいかに面白く見せるか」、その可能性を探ろうと必死で仕事に取り組んでいた。しかし、そうして10年経ったころ、「子ども向けロボットアニメ」を作り続けることに不満を感じるようになったという。そう思い始めたときに舞い込んできたのが、『機動戦士ガンダム』の制作の話だった。
「ガンダムにさまざまなメッセージを込め、テーマを持たせたのは“自戒”だった」と監督は当時を振り返る。「大人でも面白いと思えるテーマを持ったアニメーションを作りたい」。その思いがいい方向に働いた。ガンダムは子どもから大人まで広い世代の人に受け入れられるアニメーションとなり、一世を風靡することとなったのだ。
当時のアニメーションの世界は、今よりずっと閉じられた世界だったと富野監督は語る。しかし、監督は若いころから他業界以外の人とさまざまな交流を持つように心がけていた。それももともとアニメーション業界に行きたくなかったことに端を発しているという。皮肉にも、その考え方がいい形でガンダムのエキスとなった。監督はそれを「異業種格闘技」という言葉で表現する。
「異業種格闘技とは、“異なるものを取り入れて自分のものにアレンジしていくこと”。プロジェクトを成功させるためには、“一見違ったもの”を取り入れて自分のものにアレンジしていくことが大切なのです」。
自分と違ったものを受け入れる、とは、まさに、興味のなかった業界に飛び込んだ富野監督のキャリアが生みだした賜物だが、いまではこの考え方に、多くの優秀なクリエイターが賛同している。

【5】最高齢バーテンダー 山崎達郎氏の場合

山崎達郎氏

50年続く札幌ススキノの名店「BARやまざき」の店主・山崎達郎氏は、現在91歳。いまだ現役のバーテンダーとして店に立っている。氏を慕って数多くの人が全国から弟子入りし、2011年には、その功績から、日本バーテンダー協会の最高名誉賞である「ミスターバーテンダー」も受賞した。
そんな山崎氏だが、実はお酒も飲めないし、もともとはバーに何の興味もなかったという。小さいころの夢は画家。しかし画家では食べていけないと両親に反対され、高等小学校を出て染物屋に就職した。その後、戦争が始まって、衛生兵として陸軍病院で働くようになり医者を目指すも、終戦により断念。焼け野原になった東京で、これからどうやって生きていこうか、食べていくことを考えるだけで精いっぱいの日々が続いたという。
そんなとき、知人から将校クラブの雑用係の仕事を紹介してもらい、食べるために一生懸命取り組んでいたら、山崎氏の働きぶりを見たバーの責任者が「バーテンダーにならないか」と誘ってくれたのだ。「雑用をするよりはましかな、というくらいの気持ちで、バーテンダーの仕事に就きました」と山崎氏。バーテンダーの仕事は、「ほんの一時しのぎ」だと思っていた。
そこから50年、店が全焼したり、詐欺にあって大金をとられることもあった。さまざまな困難を乗り越えて、バーテンダーの仕事を続けてきた。
「最初はバーテンダーの仕事に興味がなかったし、面白みを感じられなかった。でも、新たなカクテルを考案したり、接客の仕方を工夫したりしているうちに、楽しくなってきました。私は初めてきてくださったお客さんにご自身の顔を切り絵にするサービスをしているのですが、それだってそうです。最初は1枚だけ切っていたのですが、2枚重ねて切るようにして、1枚はお店に保存、1枚はお客さんにお渡しするようになったら、お客様がもっと喜んでくださるようになった。そういう思いつきが成功すると、仕事はぐっと楽しくなるんですよ」

【6】精神科医・香山リカ氏の場合

香山リカ氏

「将来の姿なんて考えたこともなかったですね」と語るのは、精神科医の香山リカ氏。現在は立教大学現代心理学部で教鞭もとる、若者のオピニオンリーダー的存在である。そんな香山氏が精神科医を選んだのは、まさに“消去法”だったのだという。
「もともと医者になるつもりはなかったんです。ところが行こうと思っていた学部に落ちてしまって。結果的に医学部に行くことになりました。すごく消極的な理由です(笑)。精神科に進んだのも、内科や外科で必須の手技が自分にはできないと思ったから」。
今や何冊もベストセラー本を出しているが、執筆を始めるきっかけとなったのも、“たまたま”だった。学生時代に雑誌にハガキを出したことがきっかけだという。これが編集者の目に留まって、その編集者が独立して別の雑誌を作ることになって…と、芋づる式に仕事が増えていったのだとか。
「仕事って、小さなところからどんどん広がって、いろんな仕事に結びついていくもの。まずはスタートラインに立ってみることが何より大事」だと香山氏はいう。
「努力すれば確実に報われるわけではないし、大した努力もしていない人が成功したりする。世の中には理不尽なこともたくさんあります。そういうとき、すぐ不安に陥るし、ついつい“自分だけ恵まれていないのでは”と思ってしまいがちです。今は情報もたくさんあって、比較の対象が多いから、なおさらかもしれません。でも、不安はどんなに恵まれた立場になっても避けることはできないし、人と比較しても前には進まない。それよりも、今やるべきだと思ったこと、今やれることを進んでやってみることが、大切だと思っています。そうすることで、意外な人との出会いが生まれたりする。それこそ、計画していては生まれなかった幸運が転がり込んでくるんです」

きっかけはなんでもいい。まずは、目の前の仕事に取り組んでみよう

今回登場したプロフェッショナルたちは、みな第一線で活躍する人ばかり。しかし、意外にも仕事を始めたきっかけは、“消極的な”理由だったりする。もちろん最初からやりたいことがあって、それに向かってがむしゃらに取り組んでチャンスをつかんだプロフェッショナルもいる。しかし、忘れないでいたいのは、みんな最初から、やりたい仕事に就いていた人ばかりではないということ。どこも行くところがなくて、たまたま採用された会社に入って、その仕事に熱心に取り組むうちに、いつの間にかその仕事で「私はこうしたい」という意思が芽生え、仕事が楽しくなり、極めて行くうちに一流となった、という人も多いのである。
大切なことは、ここに登場した多くの人が語るように、まずは「目の前の仕事に誠心誠意取り組むこと」。これが天職を得る上で、何より重要なことなのである。

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EDIT&WRITING
高嶋ちほ子 

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